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川根焼について


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 ココへ郷土研究で訪れた小・中学生のみなさんへ

 

資料から転載した言葉は少し難しいかもしれません。
でも、がんばって読んでください。
ここでわかったこと以外でみなさんが見つけたこと、例えば、

「○○さんちに川根焼のお皿がありました」
「ここにない資料が○○図書館にあるよ」
「○○博物館で見たよ」
「私が調べたのとちょっと違うよ」

などなど、ありましたらぜひ、教えてくださいね。


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 川根焼?

幕末から明治の初期にかけ、西条市丹原(旧・周桑郡丹原町)川根にその窯はありました。
西暦1820年頃、庄屋の渡部五郎右衛門が開窯したと伝えられ、松山藩の保護監督下にいくつか存在した窯のひとつだったという説がありますが、それらを裏付ける松山藩の資料などはまだ見つかっていません。
明治6年(1873)頃、窯経営を打切った渡部家から三浦光之助が引継ぎます。
けれど、明治13年(1880)頃には廃窯となりました。
西暦1820年頃に開窯されたのが正しいなら、窯の火は5,60年前後で消えたことになります。
一代限りか、もしくは続いたとしても三代位ほどのとても短命な窯だったと推定されています。

字名にも“皿屋敷”という地名を残した川根焼の窯跡は現在、農地になっています。
往時の名残りを留めるものは、三浦家の墓所と雑草の下に見え隠れする陶器の欠片くらいです。
その貴重な欠片さえ、昭和初期に盛んに行われた研究調査や、農作業でほとんど失われてしまいました。

お墓がある三浦家は川根焼初代陶工、讃州宗五郎の子孫です。

数十年前、車道沿いの窯跡入口には川根焼きについて書かれた看板が立っていました。
地元の中学生らが立ててくれた看板には、以下の文言が記されていました。

川根焼窯跡

ここから少し入った果樹畑の中に「川根焼き」の窯跡がある。
文化文政の頃讃岐の宗五郎という陶工が来てはじめたというが詳しいことはわからない。
「御陣屋焼」「代官焼」「古多焼」「田滝焼」「高知焼」など、いろんな名前で呼ばれているが、
明治初年までの4、50年間続いた周桑唯一の製陶場であり、
近くに「からつ山」「皿山屋敷」などの地名が残っている。
窯場跡の近くに「三浦家累代之墓」があるが宗五郎以下陶工の墓をまとめたものという。

川根焼の製品は、地元の渡部家が所蔵されておられる他、愛媛県立美術館、名刹・西山興隆寺の宝物館でも見ることが出来ます。
西山興隆寺さんの住職さんは今でも食卓で川根焼きのお茶碗やお皿を使ってらっしゃるそうです。
川根地区にお住まいの方々も大事に使っていただいてるそうで、住職さんのお話では、砥部焼などに比べ、肉厚で丈夫なのだそうです。

「川根焼」が出てくる資料はとても少なく、愛媛の焼き物を紹介するページに時折、散見される程度です。
当時を物語る、例えば陶工が記した文献などはほとんどありません。

「川根焼」という名称は、いまでは広く用いられていますけど、正式な名称ではありません。
そのほかにもいくつかの別称があります。

  • 川根焼
  • 古田焼
  • 田滝(田瀧)焼
  • 代官焼
  • 御陣屋焼
  • 高知焼

「川根焼」の“川根”は地名由来で、「古田焼」「田滝焼」「高知焼」も近隣の地名を付けたものです。
「代官焼」「御陣屋焼」は、松山藩の代官から保護を受けていたという口伝をもとに来たもので、資料(編集者)によっても様々に呼ばれてきました。
松山藩の窯だったとすれば、窯場は“松山藩御製陶処川根出張所”のように呼ばれ、焼き物自体にも正式な名前など初めから無かったのかもしれません。
窯自体が短命な上、明治維新で幕藩体制が終わってしまい、命名される前に廃窯してしまった、というところが本当かも知れません。


私は川根焼陶工の縁のものです。
縁があると云っても、川根焼の皿一枚、茶碗一杯、所有していません。
当時を伝える資料さえ、紙一枚残っていません。
川根焼についての口伝もほとんどありません。
せいぜい、祖父の才助が川根に墓参りに戻った際、「ぼん、ぼん」とお坊ちゃま呼ばわりされていた昔話くらいです。
当時の住居は麓の車道を挟んだ向かいにあったそうです。

叔母などは「ロクでもない跡継ぎが家の財産を食いつぶした」というような真偽のハッキリしない話を時々します。
私の祖母が夫からそんな話をよく聞かされたそうです。
それが本当であるなら哀しいことです。
けれど、当時の時代背景などをよくよく調べてみると、そう簡単な話ではないことも最近、分かってきました。

窯場の最大のスポンサーであり、親会社的存在でもあっただろう松山藩が明治維新で解体されると同時に、自立する体力を持たない藩窯は次々と廃窯の憂き目に遭いました。
それでも何とか立ち直り、窯の火を消さずに努力を重ねようとした職人たちもいました。
けれど、新政府による経済政策の失策が引き起こした恐るべき大不景気が非力な彼らを襲います。
砥部のような大勢の職人と高度な技術力、生産性の優れた窯はなんとか生き残れました。
けれど、川根焼などは貧弱な窯は致命的な打撃を受け、人も土地も何もかも時代の波にさらわれてしまいました。
突然自由社会に放り出され、常識も一変した世界で、ご先祖様はさぞ苦労したでしょう。
故に、「ロクでもない跡継ぎ」が家の財産を食いつぶすような自暴自棄に走ったとしても、私にはそれを簡単に「ロクでもない」と言い捨てることはできません。

けれど、そんなそれらしい話も、「もしかしたら」の話です。
想像の域を超えません。
真相は闇の中です。

確かな事実は、ご先祖様が墓地以外の全てを失い、川根を離れたということだけです。
その際、日用雑器としての皿や茶碗の類くらいは持って川根を出たかも知れません。
けれど、松山大空襲など、時の流れの中で消失していったのだと思われます。

では、郷土史や愛媛の陶磁器をまとめた書籍の一節を引用し、川根焼の姿について考察してゆきましょう。


 文献から見た川根焼

1. 檜垣喜美輔著 「川根焼堀出シ陶器ニツキテ」
2. 檜垣喜美輔著 「川根焼第二回ノ調査」
3. 永田政章著 「川根焼の研究」
4. 田野村誌
5. 山本典男著 「砥部磁器史 (上)」
6. 愛媛の焼き物
7. 日本やきもの集成 10 - 四国
8. 伊予の陶磁
9. 愛媛県史 - 芸術・文化財
10. 日本歴史地名大系 愛媛県 39
11. 山本典男著 「松山藩ゆかりの西岡焼」
12. 砥部焼伝統産業会館編集 「砥部焼歴史資料 第1集」
13. 西山興隆寺

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