檜垣喜美輔氏の「川根焼堀出シ陶器ニツキテ」「川根焼第二回ノ調査」をベースに、永田政章氏が、更に現地調査や研究を推し進められ、発表されたのが、『愛媛の文化』第12号(1972年出版)に掲載されたこの「川根焼の研究」です。
「このささやかな研究をつつしんで故渡辺盛義先生の霊にささげる」で始まる論文は、
と、2章に分かれています。
3段組7頁のすべてを掲載するわけにはいきませんので、勝手ながら抜粋して収録させていただきます。
全文を通して読まれたい方は、愛媛県立図書館などで閲覧できますので、よろしくお願いいたします。
以下、構成は、
「川根焼堀出シ陶器ニツキテ」「川根焼第二回ノ調査」からの引用部分 |
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という形になっています。
「第1章 文献とその批判」
批判対象の文献は檜垣喜美輔氏の「川根焼堀出シ陶器ニツキテ」「川根焼第二回ノ調査」です。
砥部の初代のものに似たものがある。
砥部焼が、かなり成功して後、この地に来り、窯を築いたもの。
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川根染付け磁器をいきなり古砥部に直結することは、先入観にとらわれすぎた、やや近視眼的な見解である。
砥部焼の盛行した地域は大南、外山、岩谷口など、既に松山藩と替え地された後の大洲藩または支藩新屋の藩領となっていたのに対して、周布郡代官所をひかえた川根地区はもちろん松山領であった。
江戸時代、特に享保以後全国の諸藩では、それぞれ特産物の製造を奨励し、陶磁器製造などの特殊技術は、今の我々が想像する以上厳重な統制下に、特殊な技術の国(藩)外流出を防止されていたとみなければならない。
例え隣国であっても、陶工の交流などはそう簡単にできるものではなかった。
(中略)
若し、A論文でいうように、江戸時代外様の大洲藩領から親藩の松山領内へ無条件で築窯製陶技術者の流入があったことを認めさせるには、それに相当する根本資料からの証明がいることになるが、それはまだ発見されていない。
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当時のハイテク産業である製陶の技術者が外部へ流出するのは考え難いので砥部との繋がりを疑問視されています。
しかし、地続きとはいえ、砥部も他藩(大洲藩)です。
どちらかといえば東温市にあった西の岡焼などとの繋がりを考える方がもっと自然かも知れません。
- 二、総括
種類
- イ、甲染付(普通の茶碗類)
不完全な窯で硬いものも焼いたから焼屑が多い。
- ロ、乙染付(萩手のようなもの)
火度が弱い。屑が少ない。呉須の色が変わっている。
- ハ、黄褐色のを掛けたもの(徳利類)
極く火度は強い。
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甲染付と乙染付の違いは、同じ窯で同時焼成しても、火表と火裏のそれぞれ置かれた位置の違いで、十分焼けて磁器となり、火度の低い火裏で半磁器様の焼成になってしまい、貫入もはいる。
このことは窯を一度でも焚いた人なればすぐ了解できるのであるが…。
また、ハ、の徳利類というのは、焼き締めのb器類で、備前風の自然釉のかかったもの、鉄釉の掛かったものなどをさしている。
この類は砥部の古いところにはほとんど見られない。
むしろ、重信町西野岡窯や、今治港山窯(末広山焼ともいう)そして、新居浜市多喜浜焼に深い親近性を見い出すものである。 |
製品的にも西の岡焼との接点を感じておられるようです。
2、年代
明治初年よりさかのぼり5,60年は続いた。 |
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仮に1868年(明治元年)から55年さかのぼると1813年(文化10年)頃開窯ということになるが年代推定の根拠は全く示されていない。 |
1855年(安政2年)に初代陶工・宗五郎が没しています。
亡くなった年齢は不明ですが、息子の光之助が1825年に生まれています。
そこで、窯の経営も安定し、子供をもうける余裕ができた、と考えるなら、開窯は1820年前後となります。
推測の推測ですけど。
- 3、陶工
- 名のあるものでなかろう。
主として雑記を焼いている。
但し絵付けはなかなか上手な絵師が居たものと見え古雅である。
器物の内定に符号やら文様やらわからぬものが描いてある。
その種類20有余もある。
窯の印でも、作者の銘でもなかろう。
銘ならば高台内に入れる筈。
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西条丸山焼や、則之内焼、松瀬川焼、伊予九谷焼など隣接諸窯と比較して、絵付けが桧垣氏説のように特に秀でているとは断定できない。 |
著者自らが蒐集された川根焼の見込み文様を18種類、紹介し、
川根焼焼土陶片では、採集者の努力もあって、この種のサインの数が他の窯に比べて著しく豊富である点がめずらしい。
これは或いは陶工別のサインとして意味をもっていたのかとも考えられる。 |
渡部盛義氏の後記『渡部曰』にも触れられています。
4.長さ約一間版、奥行き一間のものが2窯連続していたものと思われる。 |
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斜面の広さからも、出土陶片、窯道具などのおびただしい散乱状況から見ても、また実際に窯を焚く場合の燃料経済から言っても、砥部、久谷、則之内ほか幕末期各地の諸窯の構造から考えても、単に二室連続しただけの窯であったとするのは当を得ていない。
最小限四室以上の連続室二基以上であったろう。 |
と、現地で実測調査した結果から考察されています。
6.この地に窯を開いた理由は不明であるが、付近に適当な陶石を産したに違いない。 |
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総合的立地条件が良かったからであろう。
(中略)
窯の初期には近いところから原料を採っていたとする渡部氏の推測は正しかろう。 |
と、認められた上で、中央構造線が陶石の供給源となっているとして、砥部を始め、川根などの窯後が中央構造線沿いに点在していることに着目されています。
砥部との繋がりに対しては、
製品より見るに、今治の善作焼、、西条の丸山焼などとは全く趣の変わった純然たる肥前系統にして、砥部を介在しての支流なりと推定せらるる |
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この説は近視眼的であり、根拠はうすい。
なるほど出土陶片の文様を精査してみると砥部、久谷、則之内など共通するものがあるが、これはおそらくモデルの器が一般普及品であったからで、これだけで砥部本家説は成り立たない。
第一、砥部古窯出土陶片は見込みの窯印文が川根ほど豊富ではない。
(中略)
何でも砥部に結びつけようとする考え方は、伊予の染め付け磁器の主産地として江戸時代も明治以降も砥部が厳然として活動している事実にとらわれた先入観の然らしめるところであって、十分注意し冷静に判断すべきである。 |
と、否定した上で、近隣の窯との繋がりを推測されています。
強いて親近性を見出すとすれば他藩の砥部よりも同じ松山藩の伊予久谷、則之内、松瀬川、西之岡などと関連させる方が自然でもあり妥当性もある。
第一これらの窯のすべてに、窯によって磁器の先後はあるとしても焼物代官と呼んでもよい松山藩代官奥平貞幹が関与していたであろうと推定できることも併せ考えたい。 |
最後に、東光寺の過去帳などから、川根焼の陶工についてや開窯磁時期を推測されています。
当窯の初代は宗五郎と称し讃рニあるは讃岐より来りたるものか。(讃岐生まれの宗五郎が伊予に移り砥部にて陶技を修行し、ここに来りたるものとも考えられる) |
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「宗五郎砥部陶技修行説」は全く頼りにならない憶説とすべきである。
(中略)
なお讃岐国内でほかに15窯を数えることができる程であるから、讃岐から来た宗五郎をわざわざ砥部迄修行にやる必要はなかったはずである。 |
はっきりしない開窯時期、焼成期間に関して、
宗五郎の死が安政二年(死にたる時の年齢が記入なきため確かとは判らぬ)、仮に、七十前後まで生存したとすれば大凡四十年、即ち安政初年より文化年代迄溯り得るものにて前回述べた明治初年より遡り五・六十年は焼いたものとの器物より見た感じと略々符合する訳である。 |
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宗五郎天寿70年という桧垣説によれば、川根焼の上限を文化12年頃までさかのぼらせることが出来そうだが、砥部以外の隣接諸窯、久谷、則之内、西之岡、松瀬川などの開窯時期に比較して、やや早すぎるようである。
この仮説を認めるまでにはなお根拠となる傍証が欲しい。 |
文化12年とは1815年です。
「第2章 現地調査の概要」
この章は、現地調査、陶片・伝世品の分析、陶工に関する後日調査で構成されています。
一、現地調査の時期
1966年12月15日
二、参加者
周桑郡丹原町徳田公民館長黒川健一氏および丹原町教育委員会職員数名。永田政章
三、協力者
故渡部盛義氏、丹原教育委員会
四、調査概況
1.川根窯跡現地点にて、窯の方向、位置推定、(中略)すなわち南々東から北々西へ斜面併行して登窯二基が築かれていた事ほぼ確定的である。
ただし、各登窯がそれぞれ幾室連結して構成されていたかは不明。
2.物原における陶片、窯道具片散乱状況、包含層における密集露出状況、表面採取および部分的試掘調査も行う。
3.採取された陶片、窯道具などに加えて、以前渡部盛義氏が桧垣氏らと採集されていた陶片類をも提供されたので、双方併せて分類整理した。
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「4.川根焼伝世品の調査」
焼成品5品について分析を述べられています。
参考資料 10にて、修行の地としての西の岡焼と繋がりについて述べられていますが、この論文でも、口径40pの水盤を解説した最後に、
白釉化粧掛け手法など、またこのような大物焼成法などは西之岡焼きに近似している。
西之岡窯跡ほど多量に大物破片は出土していないが、川根窯でこのような大型器が焼かれた事は出土陶片などが雄弁に物語っていて大変興味を感じさせる。 |
とあり、興味深いです。
「5.陶工に関するその後の調査」
明治25年(1892)の戸籍簿を調査され、東光寺の過去帳とを照合して、廃窯にいたる過程を推測されておられます。
川根唐津山初代陶工の宗五郎が死去した安政2年(1855)には長男道之助は30歳になっていた。
したがって陶磁の窯は父子相伝として十分に技術面も経営面も伝達を受けていたものと思われる。
ところが明治の新時代になると共に急速に産業経済の近代化、つまり資本手技化が進んで、このような手工業の持つ前近代性と、新流通機構確立のたちおくれから、旧松山藩の諸窯はぞれぞれ孤立化し、砥部窯業群のような協同的態勢の整わないままに次々と倒壊していった。
久谷、則之内、松瀬川などの優秀な陶工たちも、新しい経済社会での窯の経営に適応性を失って、ちょうど狭い旧藩政の枠が外され広域県政で移動も自由となったので、次々に強力な砥部窯業群のどこかに吸収されていった。
川根焼の窯元宗五郎の長男道之助も自家廃窯の後は砥部に移り、雇われ人の一陶工として明治25年67歳で生涯を閉じたものであろう。 |
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