参考資料 12 砥部焼伝統産業会館編集 「砥部焼歴史資料 第1集」

書名 著者名: 出版者: 出版年:
砥部焼歴史資料 砥部焼伝統産業会館 1997.4

山本典男氏の資料を基に作成された砥部焼に関する資料。
参考資料11にその名が見られた『職工人名簿』が掲載されています。
『職工人名簿』とは−

これには砥部と三島の22の窯元に所属する陶工五五一人(細工人三五九人、型絵付、毛筆画工共一九二人)の名前と出身地が窯の所属別に記載されている。この名簿は、大南の故谷浩氏の所蔵(窯元工藤市太郎旧蔵)していたのを筆者が譲り受けたものである。
この名簿が作成された目的は「下浮穴伊豫郡陶磁業組合」が窯元問の職工の雇用や引抜きに関してトラブルの起きないよう各窯に所属する職工を確定するためで、「陶磁業組合」に加入した窯元と各窯の職工代表者に印刷配布されたものと考えられる。この名簿には当時の砥部焼陶工の全員の名前が記載されていると考えられ、これによって明治中期の陶工の出身地の地域別構成の概略を詳しく知ることができる。もっとも、藩政時代より砥部に入ってきた陶工や既に砥部に本籍を移した陶工は地元陶工として数えられているので他国(他県)出身の陶工は実際にはもっと多くいた筈である。

551名の陶工が載っていましたが、残念ながら川根焼の元陶工と見られる者の名は見あたりませんでした。

三浦光之助は川根焼廃窯後、砥部で雇われ陶工として余生を過ごし、大南で亡くなりました。
そこで、三浦の名も載っているのでは!?と思って調べたのですが、よくよく考えれば、光之助が亡くなったのは明治25年。
『職工人名簿』は明治29年に作成。
載っているわけがありません。
更には、他の陶工も明治29年時点で砥部に本籍を移していたら“地元”としてカウントされているので、川根の元陶工であるかどうか不明です。

さて。
川根焼の記述は他の窯と並んで少しだけ記述されています。

伊予の磁器窯

藩政期には愛媛県にも多くの磁器窯があったが南予の御荘焼を除いて明治10年代の終り頃までには廃窯となったものが多く、これらの殆どの陶工は砥部の陶工団に吸収されている。

●[川根焼陶工]川根焼は文政頃に起った周桑郡丹原町にある松山藩領の磁器窯で、最初の陶工は讃岐出身の『讃州宗五郎』であった。
しかし明治十年代後半には不況のため窯を閉じ、その宗五郎の子三浦道之助もその後砥部で職工として働いていたことが知れる。
彼は明治25年12月9砥部町大南で死亡している。(永田政章「川根焼の研究」『愛媛の文化』12号参照)
彼の子孫は現在松山市高岡町にいる。

ほとんど引用で新しい情報はありません。

「彼の子孫は現在松山市高岡町にいる。」
というのは私の伯父のことで、現在は(近所に)転居しています。

明治の陶工の姿について書かれた興味深い箇所がありました。

地元出身の陶工の大部分は小農出身者で、大半は半農半陶の陶工であった。
小作をしながら農繁期には田畑を耕作するため休業するものが多かった。
有田などの先進地のからも博打で夜逃げした者、駆け落ち者など様々な理由から多くの陶工達が「砥部は景気が良い」という噂を聞いて集まって来た。
中四国の地方窯などの陶工は明治10年代後半の「松方デフレ」と呼ばれる不況期には大抵は休窯や廃窯に追い込まれていたからこれらの陶工で砥部に来る者は多かった。

また広島尾道近くの御調郡からは出稼ぎ陶工達が多く入っている。この地域はもともと物産の少ない地域で出稼ぎ者の多い所であった。
九州出身の陶工のなかには腕は良いが博打に手を出し、「宵越しの金は持たない」式の者も多かったが、御調郡の人達はいわゆる出稼ぎで数年間砥部の窯元の家に寝泊まりし、金を貯めて故郷に帰るものが多った。
彼等は生活は質素で生活も勤勉なものが多く、なかには砥部の土地が気に入り定着する者も多かったという。

但馬出石出身の平尾義七の「ぬくめ窯」や五松斎に型絵付を教えた肥前陶工などの例のようにこうした他産地の陶工流入の結果として種々の新技術や技法がもたらされ、砥部焼の技術的進展に寄与した側面も無視できないであろう。

「松方デフレ」について

日本が3回経験したデフレの最初のもので、参議兼大蔵卿に就任した松方正義が実施した緊縮財政が発端です。
明治10年の西南の役の戦費がかさんだため、明治政府は政府紙幣を大量に発行します。
それが原因でインフレが起きましたが、流通通貨の増大で農産物が高騰し、農村は潤います。
けれど、都会生活者などの暮らしは逼迫。
日頃から、農民は贅沢をしていると考えていた節のある松方は、紙幣・貨幣の整理、増税、緊縮財政など次々と実施します。
その際、紙幣・貨幣の整理の為、唯一の発券銀行として設立されたのが日本銀行です。
政策の結果、日本経済はデフレ状態に転じます。
農民は農産物を売り急ぐようになり、農産物価格は大幅に下落。
地租が払えない農民が没落して小作農となり、逆に余裕のあった有力農民は土地を買って寄生地主となりました。
やがて、物価の下落は農産物にとどまらず、全ての商品に及びます。
その結果、ひどい不景気に見舞われることとなりました。
生糸の値段暴落に甲信越一帯の農民立ち上がった「秩父事件」が起きるなど、様々な産業がダメージを受けました。
一部で、食い詰めた人々が農村から都会に出たたため、これによって近代産業が発展したという見方がありますが、それは間違いです。
大隈重信蔵相の代にすでにインフレは収まっていたので、松方デフレは不必要だったという見方もあります。

川根焼は「松方デフレ」の大不況以前に廃窯していた可能性もあります。
富む者は富み、貧しき者は離散。
古い型の家内工業的な経営形態の川根焼は廃窯し、工場制手工業に移行しつつあった砥部焼は逆に発展したのでしょう。