参考資料 11 山本典男著 「松山藩ゆかりの西岡焼」

書名 著者名: 出版者: 出版年:
松山藩ゆかりの西岡焼 重信町教育委員会 2001.3

幕末、川根焼よりも2、30年早く開窯した現・東温市の西の岡焼の研究資料です。
銘印の違いなどカラー写真を多数掲載し、発掘調査の記録や多くの文献からの考察など、単独の資料のない川根焼から見ればうらやましい限りの一冊です。
「川根焼」のキーワードが登場する一文を抜粋させていただきます。

3節 四国他窯の銘印と西の岡焼き

 …また同じ舩山藩で幕末期におこった久谷焼、松瀬川焼、則之内焼、川根焼なども無銘である。また元禄期に興った大洲の柳瀬焼についても記銘はない。宇和島藩の御荘焼も勿論無銘である。つまり記銘の焼物自体の例が非常にすくない。国名が記されたものは、知るところ全て藩窯であった。

無銘の川根焼は松山藩の藩窯ではなかった、ということが暗に書かれています。
当時、国名を記すことが出来るか否かということはとても重要なことです。
故にか、松山藩の記録に川根焼は登場しません(または、発見されていません)。
「代官焼」の別称から松山藩の影響が推測されてきたのですが、銘の無い所をみると、川根焼は民よりの立場だったことは間違いないでしょう。

3節 西の岡窯の陶工の交流

 …反対に、西の岡窯からの影響を考えると、幕末頃に起こった松山藩領の磁器窯、久谷、則之内、松瀬川、あるいは川根焼は、従来は砥部焼との関係しか考えられなかったが、修行地として西の岡焼の可能性も考えるべきであろう。また、この窯の終末期には、砥部の陶工団に吸収される運命にあったが、明治29年の砥部の『職工人名簿』に、藤田窯の陶工として大東卯吉、福岡窯の陶工として和田傅三郎などの元西の岡焼の陶工の名を見ることができる。

大不況のサバイバルを生き延びた砥部焼はメジャーな存在のため、砥部焼中心の史観が多分にありました。
しかし、砥部焼は地続きとはいえ大洲藩。
幕末は他藩間の人的、技術的流入流出がルーズになってきてはいましたが、越境修行はやはりそう簡単なものではないと思われます。
この文献は、西の岡焼が修行地としての役目を果たしていたのでは?とする見解を述べられています。
初代陶工「讃州宗五郎」の名から、宗五郎が香川から来たとする説は一般的ですが、他にも数人いたであろう陶工らのことは何も分かっていません。
陶工らの中に西の岡焼で修行した者もいたのでしょうか?
同じ松山藩領内の窯同士が交流を持っていたことを裏付ける資料は示されてはいませんが、可能性は大いに感じます。

そんな人的交流も示唆される松山藩領の磁器窯は明治に入るや悉く廃窯します。
陶石の調達など、資源的な問題も多分にあったのですが、大不況下で川根焼のような単独の窯が生き残るにはよほどの優れた技能と流通経路を確保していなければ困難極まりなかったと思われます。
一方、22もの窯の集団である砥部焼はその強みを生かし、明治の不況を集団で乗り越えてゆきます。
その後も、廃した窯から移り住んだ陶工らを吸収し、明治29年には550人もの大所帯に発展します。