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 研究資料 2 檜垣喜美輔著 「川根焼第二回ノ調査」

書名 著者名: 出版者: 出版年:
烟霞三号 松山楽陶会 松山楽陶会 1940

 昭和5年の『周桑郡郷土研究彙報』第二号、「川根焼堀出シ陶器ニツキテ」の発表後、檜垣喜美輔氏(号は静堂)は研究を続けられ、昭和九年、『烟霞(いんか)』三号(西園寺文庫、松山大学図書館所蔵)に補遺的な「川根焼第二回ノ調査」を発表されました。

 原文は漢字カタカナ表記ですが、読みづらいので、ひらがなに直させていただきました。


川根焼第二回ノ調査

檜垣静堂

 器物より見たる川根焼に付きては、数年前第一回調査の時求められて本郡郷土研究彙報へ私見を述べたが、本郡唯一の陶窯にして然も製品より見るに、今治の善作焼、、西条の丸山焼などとは全く趣の変わった純然たる肥前系統にして、砥部を介在しての支流なりと推定せらるる点あり。
また絵付けの閑雅なること練達されたる筆意にて共に凡作ならざるに鑑み、作者年代等につき調査の必要を感じたれども何分にも人里離れたる山間にただ一・二家族の住居するのみにて調ぶるに手がかりなく打ち過ぎしが、本夏二回に亘り再度堀を行うと共に、村の寺方東光寺を訪い過去帳の取り調べを行い、寛永初年よりの台帳を仔細に取り調べ漸くその端緒を得たり。
然れども元来一介の陶工、ただ寺に用あるは葬儀の時あるのみ。

 勿論、詳細を窺う能わざれども、伝説以外何らの記録なき当窯場にとりては、無二の資料と云わねばならぬ。

 東光寺過去帳(第一巻・寛永初年より明治廿年までの内)  

  安政二年卯十一月十日  カラツ山主  讃э@五郎  独往信士
  文久二戌十月朔日  カラツ山  (名の記入はなし)  道圓信士
  明治七年戌  カラツ山ババ  (名の記入はなし)  妙諦信女
  明治十五年巳九月廿四日  カラツ山  今平二女一月生  妙随信女

 この記録より推定するに、当窯の初代は宗五郎と称し讃рニあるは讃岐より来りたるものか。(讃岐生まれの宗五郎が伊予に移り砥部にて陶技を修行し、ここに来りたるものとも考えられる)

 要するに、宗五郎の死が安政二年(死にたる時の年齢が記入なきため確かとは判らぬ)、仮に、七十前後まで生存したとすれば大凡四十年、即ち安政初年より文化年代迄溯り得るものにて前回述べた明治初年より遡り五・六十年は焼いたものとの器物より見た感じと略々符合する訳である。
尚又過去帳最後の記録に明治十五年に生まれ年の子供が死んでいる。
要するにこの子が死して間もなく唐津山を引き払ったものであろう。
これは土地の年寄りの話とも合致している。

 尚この東光寺に現在使われている老年(当年六十五歳)女中の話によると、私が十二・三歳の頃まで唐津山の掘立て小屋に住していた「おさと」という女が日雇いをしていたが縁ありてどこかへ行ったとのこと。
彼是相合して、明治廿年頃まで住んでいたことは確かである。

扨、前記の明治十五年に子供を失った今平は先代宗五郎の何に当たるか、子であるか、孫であるか、明治十五年から宗五郎の死んだ安政二年迄は約三十年であった。
明治十五年に二女(一歳)を失った今平の年具合から想像すると子にしては少し不釣り合いとも考えらるる。
要するに、川根窯は文化年代より明治の初年まで約六十年間焼成に従事したるものとなる。

 此間、初代宗五郎、末代今平(この間に尚一代あるか否か、文久二年に一人男子が死んでおることは過去帳に記されておるが、ただカラツ山とあるのみにて判明せず)

これら陶工の墓は窯場より少し下った位置に数個あったものを極く最近に取りまとめ一基とし面文に(三浦家累代之墓)と記しあり。
姓を三浦と呼びたるものなり。

 新居浜の親戚が墓石を建て直したのが昭和8年です。
 論文の最後の一文の“これら陶工の墓は…極く最近に取りまとめ一基とし…”から、調査は墓石を再建して間もなくになされたと推測されます。

 「川根焼堀出シ陶器ニツキテ」と、この「川根焼第二回ノ調査」を検証しつつ、独自の考察を推し進められ、発表されたのが次の「川根焼の研究」です。


研究資料 3 永田政章著 「川根焼の研究」へ