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 陶工について

川根焼の陶工・三浦家について、過去帳や戸籍簿の調査が行われていますので、ここでまとめたいと思います。

檜垣喜美輔氏の「川根焼第二回ノ調査」には、下記のような系図が載っていますが、

宗五郎 三浦道之助 藤吉 竹蔵
才助
某(男)

これは間違っています。

吉田忠明氏の「愛媛の焼き物」では、より詳細に調査され、誤りを正した下記のような系図が載っていますが、

宗五郎
┣━━ 三浦道之助 藤吉 竹蔵
才助
権八
今平
┣━━━━
セエ 二女
四男

こちらも、残念ながら正確ではありません。

正しくは、こちら。
当家の位牌の繰り出しと、70歳を超えた伯父叔母の記憶から作成したのが下記の系図です。
讃州宗五郎 三浦光之助 藤吉 竹蔵
ヨシノ
才助 (私)
権八
今助
┣━
セエ

様々な資料に出てくる陶工の名前にも誤りが見られます。

2代目陶工の名前を、三浦『道之助』と書かれた資料ばかりなのですが、当家の繰り出し位牌には『光之助』となっております。
また、『今平』も『今助』となっております。


我が家系の伝聞による廃窯(丹原の三浦家が潰れた)のいきさつですが、うだつのあがらないご先祖様がいて、酒ばかり飲んで働かず、身代を食いつぶした、と、情けない話となっています。
そのご先祖様というのは3代目の藤吉を指します。

けれど、いくら言い伝えだとしても、「身代を食いつぶした」なんて話を鵜呑みにして良いものかどうか…。

ただ、参考資料 6 愛媛の焼き物に出てくる、

 川根焼の伝世品には、精巧な作りの製品が多いが、窯跡近くの物原には粗雑な作りの物が多く見られた。
 これらは、明治6、7年ごろ、窯元であった渡部家が窯の経営から手を引いた後に陶工が自主経営の形で焼いていた時の物である。

これが、正しいとすると、藤吉は相伝の陶技を習得できなかったのかもしれません。
しかし、その前に、この文章は、「自主経営の形で焼いていた」陶工が「粗雑な作りの物」をこしらえていた、と読めてしまいます。
まるで当時を見て来たかのような文章に、陶工の身内としては失笑を禁じ得ません。


以下は、推測を交えた個人的な考えです。

1820年代。
松山藩の保護監督下、渡部家が川根で陶磁器の窯を開窯します。

「代官焼」「御陣屋焼」などの名称は、藩の関与が推測される事によって付けられた名称ではなく、逆に、その呼び名が藩の、少なくとも商取引に関与していた事をにおわせるものと思われます。

確たる名称が無かった「川根焼」。
その初代陶工・讃州宗五郎は、名の示す通り讃岐出身でしょう。
宗五郎が讃岐で修行したのか、それとも西ノ岡窯で腕を磨いたのか、それも定かではありません。
渡部家の間で窯の経営権は変わりましたが、35年近く、宗五郎が焼き続けていたことだけは確かです。
その宗五郎が亡くなった年、息子の道之助は30歳。
陶技はしっかり受け継いでいた事でしょう。
明治維新までの12年間も、ラフに例えると松山藩からの“おんぶに抱っこ状態”で、経営も順調だったと思われます。
陶工らは良い陶器を焼くことだけに集中していればよかった時代はやがて明治維新を迎え、終わりを告げます。

それは、川根の窯が独立採算制へ移行した瞬間でもありました。
後ろ盾を無くした川根焼やその他の小さな窯場も含めて、原材料の調達から販路までを、自らが切り開かねばならない状況に陥ります。
世の中は急激に資本主義に移行。
藩という足かせが無くなって経済圏も拡大。
他県の良質な陶磁器が安価で流入し、競争の激化も想像されます。
明治6年、渡部家は窯から手を引きます。
変わって光之助が窯の火を守って行くこととなりました。
親会社が潰れた子会社か孫請けのような微力な川根の窯は、それでもしばらくは窯の火を絶やしませんでした。
けれど、明治という時代は、多少の商売の才覚を楽々上回る深刻な経済不況が長く続きます。
「唐津山々主」の名もあるように、山林を少しは持っていましたが、先すぼみの状況で、山も畑も売り払い、経営に充てたということも考えられます。
砥部焼のようないくつかの窯の集まりであったなら、乗り切れもしたのでしょう。
けれど、同じ頃、松山藩の銘も入って無いような雑器生産が主だった他の窯場は次々と廃窯に追い込まれていきます。
そして、川根の窯もついに運命の日が訪れます。
明治15年。光之助は砥部へ移ります。
これは出稼ぎだと考えられます。
というのは、叔父叔母が、父(=才助)が「8歳の時に川根を出た」と語った事を覚えているからです。
才助が8歳の時というのは明治31年にあたります。
明治15〜31年の16年間、藤吉は竹蔵ら子供たちと丹原に住んでいるのです。
その間、窯の火が消えていたとは考えにくいです。
寺子屋に通っていたような幼少期を過ごした藤吉はそれなりに努力したと思われます。
貧しくなる一方の暮らしをなんとか支えるため、がんばったと、個人的には思いたいです。
けれど、光之助が窯を出るまでの22年間に、どれだけの陶技を受け継いでいたかは、その後の流れを推して知るべしです。

結局、三浦家は川根を去り、墓だけが残されます。
陶工の子孫は今日にいたるまで、陶磁器を買う側の生活に変わります。
窯は草木に埋もれ、土くれに還った斜面は畑に姿を変えます。

川根の窯は昭和初期に檜垣喜美輔氏らによって調査されて、やっと思い出されます。
それから、また少し休眠して、昭和46年に開催された「伊予やきもの展」で「お国焼」が注目され、再び、話題に上るようになりました。

地元の高校の郷土クラブさんの手によって、窯跡への入り口に案内板が立てられたりもします。
その頃はまだ少しは陶片を拾い集めることが出来ました。

けれど、いつしか、案内板も無くなり、トラクターで耕された窯跡にはまともな陶片はみな砕け散り、背後の唐津山は見る影もなく、窯跡見学に訪れる人も途絶えた川根の窯はまた永い眠りにつきます。


また、こんな話もあります。
藤吉の息子、才助は墓参りなどで川根に戻ると川根の人たちから「三浦のぼん」と呼ばれていたそうです。
「ぼん」は関西弁の「ぼんぼん」=金持ちの家の息子のことです。
家屋敷は窯跡から下った、現在、2車線道路が通っている辺りにあったそうです。
幼い頃はそれなりに裕福な暮らしをしていたようです。

伯父・叔母は、川根焼については何も知りません。
私が図書館などからコピーして持ち帰る資料を読んで、「なるほど。」と初めて知ることばかり。
サイトのトップでも述べたように、川根焼の皿も茶碗も湯飲みも、なにひとつ、持っていません。
あるものと言えば、窯跡の墓地だけです。


 研究者の皆様へのお願い

これから先、調査していただける方が、正直、いらっしゃるかどうか分かりませんが、お願いがございます。
推測は推測と、引用は引用と分かるよう、きちんと記述していただきたいのです。
過去の論文が引用された記述が更に引用され、初出では推測だった事柄がいつの間にか事実あったかのような記述になっている資料を見かけるからです。

事実以外は、個人的な経験則から出た推測なども含め、どうか断言なされませぬようお願い申し上げます。