砥部焼について書かれた本の一節に、次々と姿を消していった窯場についてまとめたページがあり、その中に川根焼に触れた部分がありました。
(ハ) 川根焼
川根焼は周桑郡丹原町川根で焼かれた磁器窯である。
この地で近くには、周布代官の陣屋があったことから、御陣屋焼などとも呼ばれている。
この窯の窯跡には染め付けの飯茶碗などに混じって、陶器系の水甕なども焼いていたらしく、陶片が散乱している。
創業年代は不明だが、文政頃でないかともいう。
物原の陶片などから判断して、小田志等有田の外山系のもので砥部に類似した茶碗類が多い。
ところで川根の陶工がどこからやって来たかであるが、東光寺の過去帳によれば「安政2年卯11月10日(1855)没、カラツ山主讃州宗五郎、独往信士」あり、あきらかに讃岐出身の陶工である。
讃岐の焼物といえば、理平焼等京都系の焼物も焼かれた所で有名だが、それによって直ちに「京都清水系統の陶芸が導入されたもの」という訳にはいくまい。
何よりもその陶片が砥部と類似した肥前系であることを示している。
「文様や見込み文様の種類が砥部の場合は川根焼ほど豊かでない」というのも疑わしく、砥部がより豊富な文様を持ち、見込み文様も私が確認しただけで、30種以上の種類がある。
讃岐陶芸の歴史を調べればわかることだが、讃岐には富田焼という肥前系の磁器が焼かれており、磁器も砥部に類似したものが焼かれていた。
文政5年富田焼の斉藤窯の職人熊蔵・文吉・時蔵などが伊予に細工に行っていたことなどの記載があるが、宗五郎はあるいはこの頃入ってきた陶工かもしれない。
また、寛政年間に惣治という讃岐陶工が上原窯を経由して西野岡窯へ移っているが(前章四国の磁器窯参照。)、同じ松山藩の磁器を同時に焼いた窯として、これらの窯との関連なども今後の課題となろう。
この窯は周布郡代官の後立てのもと、地元の庄屋渡部家の出資で始められたものといわれ、一時は盛んに焼かれたようだが、明治10年代後半の不況期でこの窯も廃窯に追い込まれたようだ。
その後陶工は砥部に吸収され、宗五郎の息子三浦道之助は明治25年、砥部の大南でただの雇われ陶工としてその生涯を終えたという。
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途中で引用されている「文様や見込み文様の種類が砥部の場合は川根焼ほど豊かでない」の部分は、永田政章著 「川根焼の研究」からです。
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