名前の由来  

「三宅」について

愛媛新聞のコラム「伊予の名前事典」から

古代、大和朝廷の直轄領に設置せられ、そこから収穫した米穀を納蔵するために屯倉がおかれました。
御宅(みやけ)です。
のちには、朝廷が直轄する領を意味しました。
ですから、御宅はあちこちにあり、その屯倉の管理にあたった三宅氏も全国いたるところにあります。
予章記や伊予国風土記に記載されているという、大川積神が百済より渡来されたという古い伝説から三宅氏は大山津見神を氏神としております。
伊予の三宅氏は河野系図では河野通直の孫の通宣が三宅惣左衛門と名乗り、あるいは河野通秀の子信綱が三宅十郎、その弟通方が三宅七郎を称したことになっております。
また、三宅氏には漢の帰化族の後裔とされている流れがあり、その祖先は周霊王太子晋といわれます。
大正時代文展派の南画家三宅皆山は西条の生まれ。
川崎汽船顧問の三宅徳三郎は松山の、県史編纂委員長三宅千代二は土居町の出。

「三宅」=「屯倉」について

パソコンでも「みやけ」と入力すると「三宅」「宮家」の他に「屯倉」とも変換候補が出てきます。
知ってましたか?

三宅春海の兄・義幸が通夜の席で語った「三宅家」の由来、「三宅は元々、屯倉と書き、出自は淡路島で、彼の地にはみやけ神社というのがあって…」を検証。

『兵庫県の地名』を検索すると…

三原郡三原町 【大榎並村(おえなみむら) (現)三原町榎列(えなみ)大榎列(おえなみ)】に「屯倉神社(三宅神社)」があることがわかりました。
同社付近に淡路屯倉が置かれたとする説があるそうです。

淡路屯倉とは…

「日本書紀」2年2月条に「即日に、淡路屯倉を定む」、「古事記」の仲哀天皇段に「この御世に、淡道の屯家を定めたまひき」とある。
現榎列大榎列には屯倉神社があり、屯倉の所在地の中心部を示唆する。
皇室直轄の地として三原平野に産する穀物などを納める倉庫や、田地・山野が定められたのであろう。
「万葉集」第6巻、山部赤人の歌に「御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 奥つ海石に 鰒珠 さわに潜き出」と歌われた海産物や、山野の鳥獣も豊富な地であり、これらも献上されたであろう。
天平10年(738)の紀年のある淡路国正税帳(正倉院文書)にも「正月二節御贄」として、柄宍・雑魚、庸米および蘇(乳製品)を献上する規定がある。
朝廷への食料の貢納は長く続いていた。
淡路屯倉の設置は、みけつ国としての淡路の象徴的な記事であるといえる。

と、追記がありました。


「三浦」について

愛媛新聞のコラム「伊予の名前事典」から

相模国から起こった三浦氏は桓武平氏と称されていますが、じつは古い時代に出雲氏の一族といわれる御浦(みうら)氏が、同国の御浦都に勢を張ったその後裔であろうとされています。
和田義盛や多々良義春などはこの一族であり、美作国勝山二万三千石の大名となった三浦氏はこの子孫であります。
特異なものに、慶長五年、江戸に入って幕府に仕えた英国人ウイリアム・アダムが三浦安針と名乗ったものがあります。
和蘭人のヤンヨーステンとともに記憶されている人物であります。
西条藩士三浦安は尊攘運動で活躍し、のちに勅選貴族院議員となり東京府知事もつとめました。
三興石油代表取締役の三浦留四郎は新居浜市の出身であります。
福井大学助教授の三浦東吾は松山市の出身。
今治市からは三浦英夫が出ています。
環境衛生金融公庫の業務部長をしています。
四十三歳の働き盛りでもと厚生省医務局医事課長でした。

家系図にもあるとおり川根焼初代陶工・讃州宗五郎には姓がありません。
亡くなったのは安政2年(1855)、まだ維新前、幕末です。
平民に名字が許されたのは明治以降。

東光寺の過去帳に三浦の姓が登場するのは、宗五郎の息子・光之助です。

明治政府が明治6年(1873)の地租改正により全国的な地価調査を行い、川根村での調査をまとめた「段別畝順帳」(明治9、13年発行)を見ると、村内に「三浦」の姓を名乗る人物は光之助の息子・藤吉、ただ一人だけでした。

光之助がなぜ三浦を名乗ったのか、それは定かではありません。

「三浦」にどんな縁があったのでしょう?

遠い先祖がどこかの「三浦氏」と繋がりでもあったのでしょうか?

「三浦」という地の出なのでしょうか?

ちなみに、「三浦」の多い県は青森県です。(「三宅」は岡山県)
その由来ははっきりしていて、源頼朝の東北遠征に従い、東北地方のあちこちに所領を与えられた関東武士団から広まったとされています。

関東は神奈川県の「三浦半島」の由来は、「日本書記」に見られます。
692年5月に相模国司が三浦半島で捕れた二羽の赤烏(からす)を献上しました。
赤烏は中国の周の武王が殷の紂王を討とうとした時にあらわれたという故事に基づき、お目出度いきざしであるとして喜んだ天皇が、この赤い烏がとれた場所に「御浦」(みうら)という地名を与え、3年間土地の産物を納める「調」の税を免除したそうです。
けれど、”御”浦では天皇に対してあまりにも恐れ多いと、”三”浦の文字にしたそうです。