参考資料 6 愛媛の焼き物

書名 著者名: 出版者: 出版年:
愛媛の焼き物 吉田 忠明 愛媛文華館 1995

 川根焼についてのもっとも新しい資料です。

 といっても、著者自ら窯跡で陶片を採取されたのは1976年(昭和51年)。
 文中の“道端に地元高校の郷土クラブの手で川根焼の案内板が立てられているので…”という案内板は確かに私も見ましたが、それは子供の頃の話で、間もなく撤去(?)されてしまいましたので、内容は平成のものではないようです。

  1. まえがき
  2. 川根焼の資料と研究
  3. 川根焼の陶工
  4. 焼成期間
  5. 川根焼の伝世品
  6. 窯跡と物原陶片
  7. 川根焼の謎

に、分かれ、16ページにわたり、図版付きで詳細に述べられています。

(二) 川根焼の資料と研究 では、檜垣喜美輔氏の「川根焼第二回ノ調査」が原文のまま掲載されています。

檜垣喜美輔氏 「川根焼堀出シ陶器ニツキテ」

檜垣喜美輔氏 「川根焼第二回ノ調査」

永田政章氏 「川根焼の研究」

この資料

という流れのようです。


(一) まえがき では、川根焼について的確に述べられています。

(一) まえがき

 川根焼は東予地方で長期間にわたり本格的に磁器を焼いていた唯一の窯である。
 この窯は丹原町川根にあったため、現在では、窯の所在地に因み「川根焼」と呼ばれているが、「古田焼」・「田滝焼」・「代官焼」・「御陣屋焼」などの別称がある。
 古田と田滝は川根地区の隣地であるが、これらの地名を冠した名称が残っているのは、窯跡が確認されていなかったときに誤って、窯の名称が付けられたのと、「古田」の在銘品があるためである。
 また、「代官焼」・「御陣屋焼」は、同地方に代官所があったため、窯が代官所の保護監督下に置かれていたのではないかとの推測によって付けられた名称である。
 開窯は文政年間と考えられ、明治の初年まで陶器や磁器の日曜雑器を焼いていた。
 陶器は開窯当初に焼かれたもので、主製品は染付の磁器である。
 川根焼の伝世品には優品が多く、他の地方の民窯と比較して高度な技術を持った陶工のいたことが窺えるが、主製品が日用雑器であるため川根焼は近年まで東予地方の過程で日常の食器として使用されていたと考えられるものの、現在、明らかに川根焼と判定できる物は僅かしか残されていない。


(三) 川根焼の陶工 では、過去の文献の調査に、東光寺住職さんに過去帳を調べていただいた結果を合わせて掲載されています。

「川根焼第二回ノ調査」などに掲載されている過去帳の写しにいくつかの誤りがあることが指摘されています。

明治十五年巳九月廿四日 カラツ山 今平二女一月生 妙随信女

明治十五年巳九月廿四日 カラツ山 今平二女 一月子 智泡童女

三浦道之助

三浦光之助


(四) 焼成期間

 開窯は、

 檜垣喜美輔氏説   文化年間(1804〜1817)
 永田政章氏説 天保年間(1830〜1843)

と、なっています。
 吉田忠明氏は、文化と天保の間の文政年間(1818〜1829)と推測されています。

 宗五郎の出身については、香川県大川郡大川町(現・さぬき市)横井、斉藤要助が開窯した窯ではないかと推測されています。
 彼の地では宗五郎の名のある文書は見つかっていないようです。
 当時、廃窯した窯から四国各地へ流れていった事実を紹介した資料「東讃の古窯に関する研究」の記述から導いておられるようです。

 川根焼は地元庄屋の渡部五郎右衛門が文政年間に開窯し、その子九良衛門が引き継いだが、経営が苦しくなったので弘化4年(1847)頃窯の経営を分家の渡部利左衛門(通称、縦走)に譲ったが、同家も明治6、7年頃に窯の経営を止めたので、その後を当時窯場で働いていた陶工が引き継ぎ明治15年頃まで焼いていたものと考えられる。
 したがって、川根焼の稼働期間は約65年間と考えられる。

 その後については、

また、川根焼の消息を陶工の面から眺めてみると、初代陶工が宗五郎で、その後は道之助と今平に引き継がれたが、廃窯後道之助は砥部へ行き、大南の窯場(向井和平の窯か)で一陶工として生涯を閉じている。
今平については、廃窯後の消息に関する資料がないが、恐らくは同地に止まり農業に従事したのではないかと推測される。

(六) 窯跡と物原陶片

窯の規模について、

 檜垣喜美輔氏説 → 二室の登窯

を、現地視察した結果、五室程度の登窯と推測されてます。

この章で少し気になるのは、

 川根焼の伝世品には、精巧な作りの製品が多いが、窯跡近くの物原には粗雑な作りの物が多く見られた。
 これらは、明治6、7年ごろ、窯元であった渡部家が窯の経営から手を引いた後に陶工が自主経営の形で焼いていた時の物である。

 “粗雑な作りの物”は“陶工が自主経営の形で焼いていた”ものだと半ば断定しておられる点です。
 廃窯した原因は明治期の大不況に寄るところが多いと思われます。
 それを乗り越えられるほどの製品を生み出す腕が陶工には無かったのだということでしょうが、断定は個人的に気分のいいものではありません。
 自主経営になって粗製乱造した、とする確証があるなら是非見せていただきたいですね。 

 多くの窯で、仕上がりの良くないものはその場で叩き割る光景を目にします。
 窯跡の欠片はそういうものではないでしょうか?

 陶工の末裔として、「これは自主経営になった時のものだ」と、採集された欠片を断定した根拠も是非知りたいです。


(七) 川根焼の謎

 数々の伝聞について紹介されてます。

1.川根焼が代官所の命令によって開窯されたという説について−

「代官焼」「御陣屋焼」の別称の元になっている、代官所の命令によって開窯されたという伝聞について。

現在までに奥平が川根焼に関与したことを示す資料は発見されていないし、川根焼の開窯時期と考えられる文政初期と奥平が同地の代官をしていた天保12年ごろとは20年近い年数の開きがあるので、筆者は奥平が川根焼に関与していたという説には賛同し難い。

2.砥部焼との交流について−

宗五郎が砥部焼で修行したという説は誤りとし、

物原にある陶片が砥部焼の技術が見られるのは、川根焼の末期に砥部焼の陶工数名が同窯に関係していたためではないかと筆者は考えている。

3.陶石はどこから運んだか−

渡部盛義氏説 → 臼坂から

それに対し、臼坂の採掘跡は昭和30年代にダイナマイトによって行われた採掘された痕跡が見られると述べられています。
更に、丹原町内の楠窪地区にも採掘跡はあるが荷馬の便が無かったので可能性は低いとしておられます。

開窯当初は別として、川根焼の磁器の原料の大部分は砥部から取り寄せたのではないかと考えている。

原料に関しては、ガスクロマトグラフィなど、科学的な成分分析を行えば、いつか、明確な結果が得られるでしょう。

4.色絵物は焼かれたか−

伝世品や陶片から、色絵物が発見されていないため、川根焼では色絵物が焼かれていないというのが常識なのだそうです。
けれど、吉田忠明氏は可能性はあると考えておられます。