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伊予鉄道唱歌

みかんの国の私鉄と云えば「いよてつ」。
正確には、「伊予鉄道会社」。
市内をぐるぐる回る市内電車に、
高浜・横河原・郡中線の三線走る郊外電車。
路線・高速バス、坊ちゃん列車。
子供の頃によく行った梅津寺パークも伊予鉄ですね。
(鉄道+遊園地は鉄道会社の基本です)

その歴史はとっても古く、
明治20年9月14日創立。
翌明治21年に、松山〜三津間の営業開始。
狭軌の軽便鉄道としては日本初。
民営鉄道としては「南海鉄道」に次いで日本で2番目です。
明治の頃、「鉄道唱歌」という歌が盛んに作られました。
数え歌みたいなものです。
明治33年(1900)、大和田建樹が発表した「地理教育鐵道唱歌」がルーツです。
♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり〜
で始まる歌詞は
東海、山陽、九州、東北、北陸、関西と詠い継ぎ、334番まで。
曲の方はいろいろなバリエーションがあったようです。
当時は歌集として発売されました。

「地理教育…」の通り、子供が歴史や地理を学ぶために作られました。
でも、歌詞の面白さから大人も興味を持ち、世に大いに広まりました。
以降、大和田版に倣った鉄道唱歌がたくさん作られました。
大和田自身も、満州鉄道や阪神電車、大阪の市電など、
鉄道唱歌を作り続けました。
大和田はなんと宇和島の出身。
そんな縁もあってか、伊予鉄道の鉄道唱歌も作詞しました。
明治42年(1909)1月のことです。

さて、伊予鉄道の鉄道唱歌ですけど、

明治42年に作られた大和田版より古いものがあります。
ご存じですか?

伊予鉄の鉄道唱歌自体、ご存じない方も大半だったりしますけど…。

伊予鉄のサイト豆知識というページには大和田版が載っています。
大和田版は、明治42年、開業20周年を記念して作成されました。
いわばオフィシャルといってもいいものです。

今回、僕が見つけた伊予鉄道唱歌は、大和田版より古い明治33年11月発表。
9年も古いもの。
その表紙には

尚文会作歌 地理教育伊豫鐵道唱歌 向井湊居堂蔵版

とあります。


その歌詞は、古き良き時代の松山にあった名所旧跡を詠い、43番まであります。
大和田版は25番までです。
ふたつの歌を比べると、似た風景がたくさんあることに気がつきます。
松山は小さな町ですから、似てても全然おかしくないんですけど、
もしかして、こちらの尚文会版を基に大和田版が作成された?のかもしれません。
その可能性は、みなさんのご判断にお任せします。
大和田版には、「外側(とがわ)駅」という駅名が出てきます。
歌が発表された明治33年当時、現在の松山市駅は外側駅と呼ばれていたのです。
明治22年に松山駅から外側駅に改称され、35年に再び、松山駅に戻されました。
また、両方共通して昭和40年に廃止された森松線が登場します。
個人的には、森松線は乗ったことも見たこともないんですけど、
復活したら面白いなぁって思っています。


尚文会版を基準に、似た歌詞が出てくる大和田版を右に並べてみました。
なので、大和田版は順番が前後しています。
尚文会版は昔の字体をなるべく使っています。
フォントの足りないPCではもしかしたら表示されないかも…。
()内は異体字や、読み仮名を入れています。
 路線図

場所・駅 尚文会版 大和田版
1 名も常磐(ときわ)なる松山の
 市街を中に取巻きて
  葛の如く縦横(たてよこ)に
   蔓さし延ばす伊予鉄道
三津 1 霞(かす)める波路(なみじ)けやぶりて
 今治いでし我が船は
  高浜瀬戸を後にして
   錨をおろす三津が濱
 
高浜線 2 宿に荷物をとくとくも
 まづ高濱を見てこんと
  下り列車に乗りこみぬ
   夕日は高く雲もなし
2 先(ま)づ乗り出す高浜の
 港の海の朝げしき
  櫓を押し連れて出でて行く
   船は落葉か笹の葉か
 
梅津寺 3 新濱村の鹽(塩)田(えんでん)を
 こゆれば砂の濱白く
  老松青き梅津寺
   海水浴に知られたり
4 夏は賑わう潮あみの
 客もて埋(うず)む梅津寺
  過ぎればここぞ朝毎に
   魚市開く三津が浜
 
4 帰るは海人(あま)の釣舟か
 行くは白帆か將鳥(はたどり)か
  あかぬ景色を見残して
   入るトンネル長からず
 
興居島
四十島
5 出づれば迎ふ延齢館(えんれいかん)
 其(その)欄(おばしま)に寄りて見ん
  桃の花咲く小富士山
   あな面白の四十島
3 波なき水に影ひたす
 伊予の小富士の興居島は
  桃の産地の名も高く
   こなたにあるは四十島
 
三津 6 月にあかすも興(きょう)あれを
 今宵はいなん三津までは
  ききにし魚市朝早く
   賑わふさまを見て行かん
 
7 鯛よ鰈(かれ)よと商人(あきびと)の
 ののしる様は修羅の庭
  修羅の叶(さけび)はしづまりて
   今しもさわぐステーション
 
大可賀 8 瞬くひまに車窓より
 見ゆる濱辺は大可賀よ
  烈女まつ江の香骨を
   納めし墓は彼なるか
 
衣山 9 聞くもをののく刑塲(場)(けいじょう)の
 むかしのあとの衣山に
  春秋毎のあめの夜は
   鬼火もゆとも云い傳(つた)ふ
 
西山
大峰ヶ台
10 古町すぐれば右手には
 山内神社姥櫻(うばざくら)
  春の遊びを西山の
   千畳敷に登り見ん
5 浜の松原はや跡に
 なりて迎うる古町駅
  まぢかく仰ぐ勝山の
   城に昔ぞ忍ばるる

尚文会版(以下“”)はよそから船に乗ってきた旅人目線で描かれています。
大和田版(以下“”)はどちらかというと観光案内っぽいかな。

”はオフィシャルらしく、まず紹介的な歌い出しの1番から始まります。

三津に着いた旅人は、高浜線に乗ってひとまず高浜へ向かいます(“”は高浜からスタート)。
興居島や四十島を見、梅津寺、三津へ。
今の興居島はみかんが有名ですけど、当時はよっぽど桃が名産だったようで、どちらにも桃が描かれています。
その後、“”は早々に古町駅へ、松山城へ向かってしまいます。
けれど、“”は三津の朝市の喧噪や大可賀の浜、衣山、西山と細かく描きます。

7番…カタカナでステーションって、とっても、ハイカラ。

8番…大可賀にある「烈女まつ江の墓」とは、大洲藩士井口瀬兵衛の娘、井口松江のこと。
浪人となった父と松山で暮らしていた際、手込めにしようとした男を返り討ち、斬り殺してしまいます。
牢に入る恥をさらすくらいなら死を、と願い、父自らが首をはねました。
娘の行動に感心した松山藩主が父親を召し抱えようとしたものの、二君に仕えずと拒否します。
5年後、今度は大洲藩が帰参を許し、お家再興が叶います。
明治43年に、三津に愛媛女子師範学校(現愛媛大学教育学部)が開設。
その際、松江は女子師範の鏡とされた、その遺志が校風にされます。
大可賀公園に松江を頌える顕彰碑が立てられ、唱歌や漢詩、人形なども数多く作られました。

9番…衣山には江戸時代、刑場がありました。
雨が降る夜に鬼火が燃えるっていう描写はちょっとオカルトチックですね。

10番…大宝寺の姥桜は、今でも松山市指定文化財、天然記念物。
その裏山の大峰ヶ台が、西山です。
今は総合公園として山頂に変わった姿の展望台ができたりしてますけど、西山は江戸時代から城主も通う花見の名所でした。

さて、鉄道唱歌発表後の明治43年。
汽船の発着場が三津浜から高浜に移った関係で、地位低下を危惧した三津浜町の地元有志が松山電気軌道を設立します。
地元有志って…、凄いパワー。
江ノ口(三津)から道後まで開業。
伊予鉄が梅津寺パークを作ると、対抗して三津に海水浴場や、衣山にも「知新園」という遊園地を開業したそうです。
以降、市内への鉄路は伊予鉄道と松山電気軌道の二社が競って客を奪い合う状態がしばし続きました。
路線は、江ノ口〜住吉町〜三本柳〜衣山〜萱町(古町駅そば)〜本町〜西堀端〜一番町〜道後。
現在の本町から一番町、道後までの区間は、現・市内電車の本町線、城南線として今も残っています。
大正10年、松山電気軌道は伊予鉄に吸収合併されます。

場所・駅 尚文会版 大和田版
大林寺 11 左に近く廟堂(みたまや)の
 ならびて立てる大林寺
  高殿しろき公會(会)堂
   おくり迎へて外側駅
 
松山市駅 12 汽車おりたつと諸共に
 午報のひびき音高し
  伊豫の松山たばこやま
   煙一筋たなびきて
6 伊予鉄道の本社ある
 松山駅の近くには
  役所兵営女学校出で入る
   列車の数繁し
 
松山城 13 招魂祭は登り見よ
 山陽九州みぎひだり
  廣き眺めは慶長の
   昔ながらの金亀城
 
大街道
一番町
14 短く過ぎし長町や
 狭く通りし大街道
  繁華の中心早過ぎて
   一番町の停車場(ステーション)
 
15 花よりあくる東雲(しののめ)の
 岡のかたへの測候所
  晴れの標(しるし)にたびごころ
   我うれしさを知るや人
21 名残は残れど松山に
 帰りて城の西北を
  古町木屋町打ち過ぎて
   行けば道後の温泉場
 
道後温泉駅 16 旅の日記を取り出せば
 記す間もなく道後驛
  店に並べる名産は
   道後煎餅扶桑木(ふそうぼく)
 
道後温泉 17 名も麗はしき玉の湯の
 たま滾々(こんこん)と涌き出づる
  温泉透徹いろもなく
   硫氣ありとは僞りか
22 代々の帝の大御幸
 ありし歴史をいただいきて
  浴室清く町広く
   天下に知らるる湯の験(しるし)
 
18 疲れも此處(ここ)に洗ひ去り
 手足ものびし思ひあり
  いざとくいねて明日は又
   何れのところ探り見ん
 
湯神社
宝厳寺
19 大國少名(おおくにすくな)のふたばしら
 齋(いつ)きまつれる湯神社も
  一遍上人誕生の
   豊國山もここなれや
25 湯の神社にも詣でたり
 いざ又汽車に打ち乗りて
  一番町に疾(と)く行かん
   約せし友も待つべきに
 
石手寺 20 衛門三郎手にもちし
 石の名に負ふ石手寺は
  ここより行かば八丁余
   八十八所の一つなり

”は、高浜線の後、松山市駅から横河原線、森松線へと移動しますが“”に合わせるため、以降、歌詞の順番がずれています。

11番…大林寺は、味酒にある松山城主の菩提寺・大林寺。

13番…松山城に登って、中国地方はともかく、九州は見えるでしょうか?

15番…持田町にある松山地方気象台のこと。
明治23年、愛媛県立松山一等測候所として開設され、当時はビルなんて無かったから、気象台から松山城全体が見渡せました。
現在の建物は昭和3年に建て替えられ、ビルに囲まれだしてからは、東高の屋上へ観測測器の一部が移設されました。

16番…「道後煎餅」は後に「温泉煎餅」と名前が変わった玉泉堂本舗のおせんべい。
今でも予約しないと買えませんね。
扶桑木は伊予市の森海岸などで今でも出てくるメタセコイヤの化石。
遠い昔、朝は九州に、午後は四国に大きく影を落とす巨木がありました。
困った人々が切り倒そうとしますが、切り傷は直ぐに治ってしまうほどの生命力。
根の周りで火を焚いてやっと倒れます。
その木が化石となっり、海岸で見つかり、扶桑木と呼ばれるようになりました。
明治の道後ではお土産として売ってたんでしょうね。

17番…道後温泉の温泉成分はもともと希薄ですけど、当時は硫気=硫黄分が豊富なような喧伝がなされていたのでしょうか。
透明なお湯に戸惑っているというか、「偽り」ってところに皮肉を感じます。

”は、道後温泉に入って湯神社へ詣で、一番町のステーションに待つ友達に逢いに向かう所で終了します。

さて、“”が発表された明治33年、ある鉄道会社が伊予鉄に合併されます。
それは、道後鉄道といって、明治28年に古町〜道後〜松山間を開業しました。
松山駅は現在の大街道駅のことで、松山市駅や国鉄の松山駅ではありません。
松山駅は、鉄道唱歌に出てくるステーション名、「一番町」と改称されました。
合併後、路線は多少移設されたものの、市内電車の城北線として現在に至ります。

場所・駅 尚文会版 大和田版
道後公園 21 花の盛りの公園を
 行きつもどりつ戻り橋
  岡より見おろす鐵道は
   外側(とがわ)の線や古町線
23 浴後の散歩試みる
 道後公園あたたかに
  春風木々を吹く時は
   満山さくら満地雪(まんちゆき)
   
24 花の木の間に見渡せば
 ただ一幅の図となりて
  ながめやらるる松山市
   あれ見よ三津も興居島も
 
御幸寺山 22 古町の線に乗りこめば
 車窓にあたる御幸寺山
 昔舒明(じょめい)の大みかど
   假(か)りの宮居の跡とかや
 
城北練兵場 23 南に廣き練兵場
 ベースボールの此處かしこ
  今入り代える赤白の
   帽子は勝ちや分かれけん
 
龍穏寺 24 北には高き龍穏寺(りゅうたんじ)
 十六日の名に高し
  車かへしの櫻(さくら)花
   我も車を返し見ん
 
古町駅
南堀端
25 木屋町すぎて古町驛
 紡績会社並びたり
  汽車乗りすてて本町を
   通れば此處や札の辻
 
県庁 26 第十旅団の兵営を
 過ぐれば近き県庁は
  千代もゐませと構へてし
   春宮(とうぐう)殿下の仮りの宮
 
森松線
日切地蔵
石手川
立花
27 旅は日切(ひぎり)の地蔵尊
 願(ねがい)をかけて乗る汽車は
   鉄橋すぎて程もなく
  名も薫(かぐわ)しき立花よ
7 間もなく渡る石手川
 左右の広き堤には
  枝さしかはす木々高く
   さながら自然の公園地
 
星岡山 28 直ちに行かば星の岡
 土居得能の古戦場
  なびく尾花の松風は
   剣の光鬨(とき)の聲(こえ)
12 立花駅に立ち戻り
 森松線に乗り換えて
  南に向かえば星の岡
   勤王義士の古戦場
 
椿神社 29 椿神社を過ぎて重信の
 河原に出でば森松よ
  川は治めし人の名に
   線路は此處の名に負へり
13 椿の森に神さびて
 祭られ給う伊予豆比古(いよつひこ)
  立つや石井の大鳥居
   居ながらそれと拝み行く
 
砥部 30 川のあなたの砥部村は
 高き名を得し向井氏の
  淡黄焼の製造所
   行かば此處より一里半
14 森松下れば土佐街道
 伊予名産の一つなる
  雪より白き砥部焼の
   産地南に約一里

道後温泉を楽しんだ後、城北の史跡を見て回り、当時はあった森松線に乗って砥部へと向かいます。
当時、城北を走る線路は、現在の樋又通りに敷設されていました。
そのためか、御幸寺山や十六日桜、現・愛媛大学の場所にあった陸軍歩兵第22連隊の練兵場などが詠われます。

26番…春宮とは皇太子のことで、読み仮名のとうぐうは春宮と同意の東宮。
ちなみに、道後温泉本館の皇室専用の浴室、又新殿は“”発表前の明治32年にできました。
後の大正天皇が嘉仁親王皇太子として道後温泉を訪れたのは明治36年。
県庁ができたのは明治11年。

28番…星岡山または星の岡は天山方面にある小山です。
森松線のない現在は横河原線の方が身近な位置にあります。
古戦場とは、鎌倉時代末期、倒幕を画策した後醍醐天皇を中心とする天皇方と幕府側との戦を意味しています。
土居通増と得能通綱は天皇方についたため、“”の「勤王義士」という言葉があてはまります。

30番…駅は森松までなので、砥部町はまだ先です。
”には「一里半」、“”も「約一里」と歌詞が共通しています。
場所・駅 尚文会版 大和田版
横河原線
久米
31 乗りかへ行けば久米の驛
 櫻に名ある日尾の宮
  平井の驛も過ぎぬれば
   遙かに香(にお)ふ梅の本
8 立花出でて久米の駅
 名高き神社仏閣は
  日尾の八幡三蔵院
   四国霊場西林寺
 
32 績(いさな)は梅とかぐはしき
 久米部小盾(くめべおたて)の奥城(おくつき)は
  此處に残りて播磨塚
   小松の緑色ふかし
 
石鎚山 33 櫨(はじ)の林を分け行けば
 四國山脈かすむなり
  石鐵(いしづち)颪(おろし)さむき日は
   紅葉の錦きても見ん
 
田窪 34 田窪驛の南には
 征南将軍満長(みつなが)の
  宮の御墓もありとかや
   露けき岡のその上に
9 送り迎える程もなく
 平井田窪打ち過ぎて
  片手の薬師浮島の
   社も跡になりにけり
 
津吉町 35 袖も袂も打ち薫り
 秋は乙めも遊ぶなる
  松茸山に名の高き
   低き津吉も程近し
10 津吉上松松茸の
 産地とかねて音に聞く
  処はあれぞあの山ぞ
   秋は来て見ん打ち連れて
 
横河原
川内
36 汽車は止りぬ横河原
 音に名高き瀧つせは
  徒歩(かち)よりゆかん川の内
   あはれ探らん友もがな
11 終点駅の横河原
 おりて進めば讃岐道
  夏白糸を繰り出だす
   白猪唐岬(からかい)滝近し
 
郡中線 37 下りはゆるき勾配に
 帰りも早し外側驛
  半日下車の便あれば
   休みて行かん米港(こみなと)へ
 
余戸駅 38 余土驛下りば菅公(かんこう)の
 今出づるかと宣(のたま)ひし
  今出のかすりにおこしたる
   かな女の墓も遠からず
15 郡中線は松山を
 出でて余戸駅出合駅
  余戸には履脱(くつぬぎ)天神と
   日招(ひまねき)八幡名も高し
 
出合 39 石手重信出合川
 鐵橋渡る音高し
  戦(おのの)く人も数多し
   路(みち)は堅固とききつれと
16 出合は石手重信の
 二流出で合う処にて
  河原は白く水清く
   青きは岸の松林
   
17 夏は涼みに秋は月
 柳の花の散る頃は
  鮎釣る人の影見えて
   景色ぞあかぬ四つの時
 
松前 40 松前の驛に近づけば
 心して見よ西の手を
  玉垣白く松青し
   義農の墓は此處なるぞ
18 松前の港賑わいて
 妻も乙女も朝毎に
  いただき出づる御用櫃(びつ)
   売り行く魚(うお)は何魚ぞ
 
41 昔の城の跡とへば
 答ふる里の童子(わらわ)あり
  昨日習ひし學校の
   歴史の話そのままに
19 松前の城は田の中に
 埋もれて跡は知らねども
  しるきは義農作兵衛の
   誉れを残す墓所(はかどころ)
 
郡中
五色浜
42 郡中濱におりたちて
 われも拾わん五色石
  石に因(ちな)める彩濱館(さいひんかん)
   煙は迷ふ硫黄灘
20 砂糖の出づる地蔵町
 過ぎて下車する郡中の
  浜は五色の名も高く
   一望はてなきわたの原
 
43 此處住吉と思へども
 限れる日数はや盡(つ)きぬ
  佐田を枕にふす宵の
   夢やいづこに通ふらん

横河原線と郡中線を描いた歌詞の部分です。

31番…久米にある日尾八幡神社は、椿神社の神様と夫婦でした。
洪水で別々の土地に流され、二つの神社に分かれました。
二人の神様が出会うのが椿さん・椿祭りです。

32番…久米部小盾は古事記に登場する人物で、播磨塚にある神社では久米部は来目部となっています。
播磨塚は南梅本の自衛隊駐屯地のあるなだらかな丘陵地で、平成10年、古墳が発見されました。
久米部小盾は久米郡出身で、播磨の国司に任命されました。
父を殺され逃亡中だった二人の皇子(億計と弘計)を見つけ、朝廷に奏上します。
弘計は即位し、顕宗天皇となり、(億計は後に仁賢天皇に即位)、その功績により、小盾に山官の役と山部連の姓を賜りました。
小盾は久米に帰り、その墓は「はりまさま」と呼ばれています。

36番…「汽車は止りぬ横河原」と「終点駅の横河原」、滝の下りなど、共通しています。

37番から郡中線へ変わります。
郡中線は、明治29年、南予鉄道によって藤原〜郡中間が開業しました。
伊予鉄も計画していた路線でした。
南予鉄道は八幡浜まで延伸する計画でしたが資金難から郡中駅までとなりました。
“尚”が発表された明治33年、伊予鉄道に合併され、藤原駅は外側駅に統合されました。
郡中港まで延伸されるのは昭和14年です。
”20番の地蔵駅は“”が発表された明治33年には無く、翌34年に新設されました。

38番…菅公とは菅原道真のことで、“”に出てくる履脱天満神社(久保田町)が縁のある社寺です。
道真が福岡県太宰府へ流される途中に遭難し、桜井の浜に漂着します。
松山に滞留していた道真の元に蔵人頭三位中将紀久朝が勅使として訪れ、九州へ向かうよう伝えます。
その出迎えの際、履が脱げたという由来が、今に残っているわけです。
ちなみに、船出の際、見送る里人達に「今でるよ」と声をかけたことから、西垣生の浜を今出と呼ぶようになったらしいです。

〃…かな女の墓とは、伊予絣生み出した鍵谷カナのお墓が西垣生の真言宗長楽寺にあることを詠っています。

40番…松山城築城の礎となったのが松前城です。
加藤嘉明が朝鮮出兵の論功により松前6万石へ与えられ、松前城に入ります。
秀吉の死後、、三成を嫌って家康側に着き、関ヶ原の役では戦功をたて、20万石に加増。
勝山に松山城を築城し、松前城は廃城となりました。
城を移した際、松前の「松」の字、城が建てられた勝山の「山」を取って「松山」とし、以降、松山という地名が定着しました。
松前城の石垣は松山城の石垣として利用されました。

〃…義農の墓とは、松前では知らぬ人のない義農作兵衛の墓のことです。
害虫の大発生に重信川の氾濫に見舞われた享保の大飢饉。
作兵衛は「一粒の種は来年の百粒にも千粒にもなる」と麦一粒も食することなく、餓死します。
作兵衛の父も長男も麦種には手を付けず、死んでいます。
翌年、その麦種は大切に蒔かれます。
この話を聞いた松山城主が年貢を免除し、村人を苦しみから解放すると共に、作兵衛の墓石まで建てたそうです。
義農神社は明治14年に建立され、頌徳碑は“大”発表の3年後の建立です。

42番…平家姫が身を投じ、五色の石になったという伝説が残るのが五色浜です。
彩浜館は明治27年、集会所として建てられた施設で、“”発表の明治42年には伊藤博文が来遊しています。
硫黄灘とは、別府湾の別称です。

そして43番、住吉を住み良しとかけて、締めくくられます。


いかがです?

なんとなく、似てるでしょ?