平成20年6月16日 天気:

錦町の家の屋根修理

みなさんご承知の通り、錦町の家の屋根はそれはもうボロボロ。
僕らが子どもの頃から雨漏りに悩まされてきました。

戦後間もなく、家を建てた頃の屋根は杉皮で葺いたような粗末なものでした。
その後、ミツが近所の大工に頼み、現在の屋根に葺き替えました。
けれど、その大工の仕事はとてもずさんで、素人の僕にもすぐ分かる酷いものでした。
野地板(下地)は丸太を切り出したそのままの縁もガタガタの安物の杉板で、それも隙間をかなり開けて打ち付けており、材料費を浮かしたのが見え見えでした。
その上に貼る防水シートも施工手順とまるっきり逆さに貼ってあり、瓦から染み込んだ雨水がシートとシートの隙間から簡単に染み込んでしまうような状態でした。
それでも、瓦が元気なうちは雨も漏りませんでしたけど、数十年の間、風雨にさらされ、太陽に焼かれ、すっかり風化してしまっていました。
コンクリート製の瓦は風化するとスポンジのように水が染み込み、ちょっとした重みで簡単に割れてしまいます。
実は瓦はメンテナンスフリーではありません。
経年変化で防水効果が落ちるので、コケやカビを洗い落とし、防水効果のある塗装を数年おきに施工する必要があります。
けれど、そんな知識を持ち合わせていなかったため、ほったらかし、すっかり、痛みきってしまっていました。
また、古いタイプの瓦のため、同型の瓦は入手困難。
差し替えもままなりませんでした。
当初、屋上に予備の瓦がストックしてありました。
けれど、伊予灘沖地震の後、瓦が調達できなくて困ってた知り合いにミツが全部分け与えてしまっていました。

思えば僕らも子どもの頃、屋上に逃げたミーやチビ、チッチビなどを追いかけて屋根に上がったりして瓦にダメージを与えていました。
あれも当然、雨漏れの原因になっていました。

ここ数年はブルーシートを張ってなんとか風雨を凌いできました。
台風など強風が吹いた日には舞い上がって逆に屋根を傷めないかと内心、冷や冷やものでした。
今年はそのブルーシートの張り替えをまだしていません。
いい加減、ズタズタ、ボロボロ、みすぼらしいったらありゃしない状態でした。
そんな中、今年も梅雨入り。
まとまって雨が降ると天井でポタポタ、音がし始め、雨音のセッションが開演します。
ミツはいよいよ、ガマンできなくなったのか、今月の初め頃、勇さんに電話をしました。
勇さんは二階のサッシや壁の貼り替えなど、いろいろお世話になってる三浦一春系の親戚の大工さんです。
数年前、「30万位で屋根を直してあげるよ」と云われたのをミツはずっと覚えていました。
以来、コツコツと小銭を貯めていました。
とはいえ、間に合わなかったので、最終的には麻に援助を頼みました。
麻は快く承知してくれました。
ミツはとても喜んでいました。
おかげで屋根修理が行われることとなりました。

勇さんは既に高齢で一線を退いており、施工は勇さんの知り合いの工務店が行うこととなりました。
電話から数日後、業者が見積もりに来て屋根の状態を見聞。
勇さんが数年前に話した金額で話がまとまりました。

そして、今日、朝一番から屋根の修理が始まりました。
朝8時に来た職人は6人。
梅雨時で忙しいだろう最中に6人も職人が入ってくれたのは、まさに勇さんのおかげです。

すぐに古い瓦の投棄が始まりました。
朝の町にバンッ!バンッ!と大きな音がこだまします。
10時のお茶の時間にはボロボロになっていた防水シートもみんな降ろし終わり、野地板の杉板が顔を出しました。
思った以上に隙間だらけです。
でも、危惧していたほど木は腐ってもなく、桟の上を歩く分には踏み抜く心配もないほど、まだ丈夫でした。

 表側。
 裏側。
 三浦側の屋根がせり出したところ。
天井裏。 ほこりがたまりにたまっています。

工事の間、ミツと話をしていて先日の東北の震災の話題になりました。
こたつの脚がもう少し高かったら地震が来た時に潜り込めるのに、と、ミツ。
伝い歩きしかできない人が、揺れてる最中にたどり着けるわけ無いじゃん、と、一笑。
たどり着く前に倒れてきたタンスに押しつぶされて死ぬから、ベッドの上にいた方が何倍も安全、と、アドバイス。
でも、ベッドの頭上、タンスの上にはせり出すように多数の箱が置かれて危険でした。
前から気になっていたので、この際とばかりに全部、撤去しました。
箱の中身はほとんどが何年も着てない服や中元などでもらったタオルケットなどでした。

そんなこんなでお昼になり、職人さんも廃材を捨てに戻って行きました。
屋上に上がってみると既に防水シートを張り終えていました。
さすが、6人もいると早いです。
防水シートの下にはきちんとコンパネも貼ってあります。

 表側。
 裏側。
三浦側。 防水シートの下にはコンパネ。

僕は3時のお茶に出すジュースを買い出しへ。
ついでに、二階の蛍光管も買って、二時前に戻ると、午後の工事は始まっていて、瓦の取り付けが始まっていました。

今回、用いた瓦はコロニアル(スレート瓦)。
コンクリート製で、横長の薄い板状で軽量です。
耐震性がまるっきり無いウチには、屋根は軽い方が安心です。
個人的にはもっと軽いアスファルトシングルが、葺き替えが素人でもできるので良かったんですけどね。

トンカラ、トンカラ…。
屋根の上から金槌の音が響いてきます。
コロニアルは釘で固定する瓦です。

3時のお茶になり、買ってきたお茶を出して休んでもらってる間、また撮影。

 表側。
三浦側。 池内側。

あらら、もう、ほとんど葺き終わってます。
縁切りの板金も施工済み。
屋根の一番高いところが残ってるだけでした。

そうこうしてる間に5時になり、職人たちは撤収をはじめました。
そうです。
なんと1日で工事が終わってしまったのです!
6人もいれば早いものです。
でも、斜め向かいの野本宅でも同じような人数で屋根工事をしてたけど、三日はかかってました。
工事日数分、人件費が増します。
野本宅は50万かかりました。
うちは一日で終わってラッキーでした。
多分に、勇さんが(工事費のことも考えて)一日で終わるように話をしていてくれたのかもしれません。
帰り間際、職人さんにおみやげに缶ビールを人数分渡しときました。
午前中にミツが、職人らにいくらかお礼した方がええんと違う?なんて云いだした際、もったいないからと言いくるめ、その代わりに買っておいたものでした。

 表側。
三浦側。 屋上階段出口裏。
 池内側。

すっかりきれいになりました。
職人的な目で見ると、少し不満なところがないわけでもないですけど。
とりあえず、雨が降って、雨漏れがしなければOKです。

 これが-
 こーして-
 こーなって-
 こーなりました。

さて、最後に、屋上からの風景を。
北側。
もう松山城も御幸寺山も見えなくなりました。
かろうじて、奥道後のお山や、石手寺の巨大お大師像は見えます。
松商は校舎が新しくなりました。
南側。
マンションがでーんとあって、子どもの頃は見えた重信川河原のPL花火まつりも、いまだったら絶対無理。
畑寺の方の山も、皿ヶ嶺も見えません。
おまけに電線だらけです。
 東側。 西側。
東側にある昔ながらの家は仙波の倉庫くらい。
ラーメンのもりちゃんも台風災害で壁が崩れはじめてしまい、取り壊されてしまいました。
西側はタバコ屋の玉井は残ってるけど、病院はとっくの昔に閉院。
歩道はタイル張り、桜並木になり、外灯も付いたし、きれいにはなりました。
でも、道路端に縁台が置かれてた頃が懐かしい、今日この頃です。

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