昨日26日朝、東京から、文の遺骨を抱え、由夫婦と健一、来松。
空港からその足で錦家に来たものの、運悪くミツが部屋に不在(トイレ中でした)で、宿泊先へ向かってしまいました。
明けて翌27日。
丹原へ出立する前にスーパーを巡り、お供えやシキビを買って戻ると、錦家にはトクが、程なく、由らも訪れました。
照家前の集合時間が間もなくだったで、久方ぶりの再会は車内で楽しんでもらうことにして、みな揃って錦家を出ました。
先を行く由らと、車を押してマイペースなミツら。
照家前にはすでに義も到着。
足の悪いミツに「歩くん遅いんじゃけん、はよ、出てこんか!」と照。
でも、ほぼ予定通り、12時に築山を出発しました。
途中、コンビニで写るんですなどを買いに立ち寄りながら、照号、義号の二台は順調に東へ。
丹原町に入り、急に立ち寄れと命令されて農産物直販所へ。
照はなにやら買い物へ向かうも手に入れられず、すぐ戻ってきました。
トイレ休憩から由夫婦が手をつなぎ、ラブラブで戻って、お寺へ再出発。
伊予三芳にある、東光寺の兄弟寺、光明寺には予定していた1時半ちょうどに到着しました。
本堂へ上がり、四十九日法要。
仏具が占める本堂は少し狭く、本尊に向かって右に由らと照、賽銭箱を挟んで左側にミツ、トク、義、僕が腰を下ろしました。
照が文の命日を誤ってお寺に伝えていたため、白木の位牌を書き直す時間が余計にかかってしまい、読経が始まったのは更に後でした。
ちょっとタイム。
白木の位牌を携え、住職さんが戻られ、法要スタート。
丁寧に長長とお経を上げてくださいました。
途中、左の卓上にあった仏具を数珠をひっかけて落とすハプニングがあったものの、無事、四十九日終了。

照号は一足先にお墓へ。
草刈りされた農道を上がりお墓へ。
今日はそれほど落ち葉もなく、早速に水をくみに行き、戻るとはや、住職さんが来られており、義号のみなも到着しました。
納骨のため、石を外すのですが、ここで思った以上に時間を費やすこととなりました。
予定通り、正面の家紋のある石はすぐ外れ、墓室が顔を出しました。
問題はここから。
まだその下にあった横長の石を取らないと骨壺が入らないのです。
その石も周囲のすき間ををシリコンコーキングで塞いでいたのですが、実の納骨後、照のリクエストで盛ったコンクリートがアダとなって、ビクとも動きません。
喩えるなら、重なった二つのグラスが抜けないような感じです。
縁に盛ってあるコンクリートを30分もみんなで削ったでしょうか。
あまりに頑丈に外れないので、住職さん、川根の集落へ行ってバールなど借りて来てくださり、一緒になって格闘してくださいました。
みなに迷惑をかけつつ、やっと外れました。
「納骨の前の日に石は開けておくのが普通じゃ」と今頃言う照を尻目に掃除。
やっと納まりました。
こんなに大勢での墓参りは久しぶりで、素直に石が外れてしまうとみんなすぐに帰ってしまうから、お墓の中のみなと文が力を合わせ、石が外れないよう、中から引っ張ってたのかもしれません。
苦労した分、思い出になったかな、と、言い訳しつつ、石を元に戻し、お供えして、やっと、納骨の儀へ。


納骨が終わり、松山へ帰りました。
義はトクを大手町へ送って帰宅。さんくす。
その後、由らと照、僕の五人はワシントンホテルへ場を移し、食事会。
みなアルコールも入り、会話もとても弾んで、楽しい夜になりました。
場の中心になってよく話す由。
健との会話は30年ぶりでしょうか。
由の夫もいい人で、秋には新潟へ稲刈りにおいでっていう誘いを本気で考えてみようと思いました。
文の亡くなるまでの数日間の話や、文のその後の人生を形作ることとなった戦争体験のことなど、知らないことばかりで、終戦後の文が苦労した話や、サカエやミツらに、職場でもらってきたバケツいっぱいの粉を溶いて食べさせてやった話には、酒も入っていないのにジンと目頭が熱くなってしまいました。
由夫婦が幸せそうで、なによりそれがうれしい夜でした。
ホテルの人に頼んで記念写真。
これを書いている28日は、由らは松山城など観光をして、夜はワシントンホテルから道後の宝荘へ宿泊先を移し、道後温泉で旅の疲れをいやされていることでしょう。
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