ずっと以前から気になっていた、国枝さんのお墓参り。
国枝さんには一度しか会ったことが無いけど、お墓参り担当大臣としては一度は行かねば…。
春ビルに伸と晩ご飯を食べに行ったついでに長浜の住所をチェック。
翌日曜日、照号で長浜へ向かいました。
(ちなみに、照は土・日と金沢旅行中)
“長浜のお寺に行けばきっとすぐお墓参りが出来るだろう”
簡単に考えていました。
麻もメールで“お寺の敷地にあるのでは?”と言ってたし。
以前、国枝さんのお位牌を春ビルで坂田さんにお渡しした時にそんな風なことを聞いた気がしていました。
でも、結果を先に言うと、お墓参りは出来なかったのです。
長浜にお墓はなかったのです。
昨日の雨が嘘のような快晴。
長浜には海岸線を走る国道378号線、通称“夕やけ小やけライン”で一直線。
車だと一時間ちょっとで楽々到着。
長浜の町を歩くなんてことはそうそうないことなのでますはちょこっと観光。
肱川の河口にかかる赤い跳ね橋も初めて渡ってみました。
橋の真ん中が船の往来をじゃましないように跳ね上がる仕組みになっています。
冬は“肱川嵐”という上流から押し寄せる濃霧に包まれるシーンで度々ローカルニュースに登場する橋です。
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渡ってすぐの商店街。
といっても、寂れて見るべきものは何もなかったけど。
で、観光気分終了。 |
前日にPCがぶっ飛び、地図検索が出来なかったので、現地で道を尋ね歩く作戦です。
キーワードは“寺町”、“福成寺”、“坂田喜教”、“清家”。
早速尋ねると、それはもう親切に、身振り手振りで「あの角を曲がって…」と教えてくれました。
小さい町なので“福成寺”はあっさり見つかりました。
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残念ながら境内にお墓はありませんでした。
お寺の人に尋ねてみました。
春が法要などお願いしていたので、国枝さんのことはすぐわかってもらえました。
坂田さんに託したお位牌は一時こちらに預けられてもいたようです。
ですが、お墓の場所は知らないとのこと。
代わりに国枝さん縁の“清家”の家が近くだというので教えてもらいました。 |
そこは道を挟んで四、五軒先。
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でも、玄関、閉まってました。
うーん。
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最後のキーワード“坂田喜教”さんを近所の人に尋ねると、通りがかりのおじさんも巻き込み、二人がかりで教えてくれました。
「立派な日本瓦の家があるから」
と、教えてもらった家は福成寺の門前からも見える通りの先にありました。
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けれど、またこちらも留守。
番犬が歯をむいてうーうー唸っていたので退散。 |
困った…。
もう一度、清家の家へ行って、写真でも撮って帰ろうと、戻ってみました。
何気に家の裏側へ回ってみると、勝手口に人影が。
意を決し、訪ねてみました。
歳は同じくらいで、坊主頭の男の人が網戸の向こうに現れました。
神経質そうなしかめっ面で、なんだか警戒されてる感じ。
「松山から来た三宅と申します…国枝さんって方はご存じでしょうか?…僕は国枝さんと結婚した三宅春海の息子で…」
そこまで言うとやっと通じたようでした。
お墓参りに来たので場所を教えて欲しいと告げると、長浜には無いという答えが帰ってきました。
がーーーーん。
彼も正確な場所は知らないようで、子供の頃に行ったっきり、覚えてないそうです。
更には、お墓を知る者はみな、出かけているか、入院して長浜にいないというのです。
ますます、ピンチ。
まぁ、仕方ないか、と、しばらく世間話。
彼は、国枝さんのお姉さんの息子さんで、僕にとっては一応、戸籍上、従兄弟に当たる人です。
長浜によく来ていたらしい春と会ったことがあるそうです。
でも、これといった思い出話はないみたい。
“くーちゃん”(国枝さん)に子供の頃よく遊んでもらったとか、坂田も清家も屋根屋の仕事をしていて、彼も一時期手伝っていたとか、そんな話を小一時間。
道を尋ねた時の坂田の家は“立派な日本瓦”って説明されたのはそのせいか、ふむふむ。
さて、どうしようかと迷っていると、運良く、「病院へお見舞いに」行っていたおばさんを乗せた車が帰ってきました。
春ビルで会った国枝さんのお姉さんに当たる方で、「松山から来た三宅…」というとすぐ分かっていただけました。
応接間へ案内され、小一時間、あれこれ話しをしました。
まずはお墓について。
出身地の津島町(現・宇和島市津島)の増穂という場所にあるそうです。
そこは、坂田の本家のあった場所で、現在はお墓しかないとのこと。
家族が皆、長浜や松山に出て無人になった家や田んぼを、長男の喜教が勝手に売り払ってしまったそうで。
皆、農業が嫌だったから別にかまわなかったらしいですが、田舎にお墓しか残ってないのはウチと似てるなぁ。
お墓への道が台風で崩れたとか、お墓参りに行けてないので、きっと草まみれだ、とも。
池田ひろしさん宅の裏、というのが目印みたいなもののようです。
国枝さんは亡くなる前、自ら津島のお墓に入ることを望んだんだそうです。
お墓を建てたとしても、春との間に子供も無いので春が無くなった後でお墓を見てくれる者がも無いと、充分承知していたようです。
故郷の海や山で親と一緒のお墓に入って眠りたいと、春にも坂田の人たちにも了解をもらっていたそうです。
預けたお位牌は喜教さん宅にあるらしいです。
一人残された春。
ホントはどこへ葬ってもらいたかったんだろう?
さて。
喜教さんも艶子さんも現在、入院中。
喜教さんは、膵臓と胃だかにダブルでガンに罹り、このままでは余命2年と大洲の病院で宣告され、松山の日赤に入院中。
奥さんも見舞いに行ったっきりだから、坂田の家はずっと留守なのだそうです。
ガンが発見された後も、残った仕事を片付けてから入院したという職人魂。
艶子さんは、足が不自由で腰が曲がったりで、松山の横田整形外科に入院中。
大街道の鞄店で何十年も立ち仕事の働きづめで、体を痛めたのではと、言っていました。
あちこちの病院にかかってみたものの、レントゲン撮って終わりみたいなことの繰り返しで、一向にらちがあかず仕舞い。
足の悪い感じはミツと似ているかも。
先に立ち話をした彼は、30歳代で体を壊して以来、親が出かけると玄関に鍵をかけてしまう位、家にこもりがちなのだとか。
勝手口で立ち話中、ずっと網戸越しの会話だったのはそのせいね。
国枝さんのお位牌の件で麻か伸が長浜に電話をした時、ぶっきらぼうで嫌な感じだったと思ったのは、彼が電話に出たからかもしれません。
おばさんは、そんな息子が見知らぬ他人(僕)と長話したと聞いて、何度も珍しいなぁ、と繰り返してました。
おばさんはよく話す人で、日が暮れかかるまであれこれ話をしました。
春は度々、長浜を訪れていたそうです。
国枝さんが亡くなった後も法要以外に訪ねて来ることもあったようです。
釣りに来たり、行き帰りに寄ったり、してたんだろう。
新しい家族だもの。
特に、松山でずっと一人暮らしをしていた艶子さんには何かと気を遣ってたようです。
今回、お墓参りが大目的だったので、春のことはあまり聞かなかったけど、長浜での春はとても好印象の様子でした。
だからこそ、おばさんもみな、他人同然の僕を笑顔で迎えてくれたんだと思います。
三浦での教訓が生かされたのかな?
麻だったらもっと面白い話が聞けたかも知れません。
「楽しかったからまた出ておいで」
と、おみやげにジャガイモをもらい、帰りました。
お墓は津島かぁ。
宇和島の向こうだし、遠いなぁ…。
でも、僕のことだからいつかきっと行くんだろうなぁ。
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