平成17年10月11日〜13日
孝の葬儀

11日のこと

「誠司くーん、ちょっと来てやー」
ここ数日のことは、夕方7時5分頃、2階から呼ぶ声で始まりました。

行ってみるとどうも電話の調子がおかしいらしい。
先日、ミツの電話が壊れ、僕の使っていなかった電話機と交換したばかり。
早速、故障か?と、思ったら、実はミツがプッシュボタンをダイヤル並みに長押しするせいで、機械的にキャンセルされていただけでした。
電話番号のメモの字も小さいから余計手間が掛かり…。
だめだめだなぁ。
僕がかけてみるとあっさり繋がりました。
通話先は孝が入所しているケアハウス「友」でした。

孝が倒れ、吐血し、救急車で運ばれた、という情報を高松の千里(以下、千)経由で聞いたのでした。
あたふたしているミツ。
様子が分からず、ケアハウスへ容体など問い合わせようとしました。
けれど、ケアハウス側も先の知らせ以上の情報は入っていないようでした。
救急車には、ケアハウスを運営している永井病院の長井先生も同乗し、国立がんセンターへ向かわれたのでした。
錦町にも連絡を、と頼んで電話を切りました。

ミツに電話のかけ方をレクチャーしていたら、ケアハウスから電話が入りました。
容体が急変したので病院まですぐ来て欲しい、という内容だったようです。
「照号を借りてくるからその間に支度してて」
と、照家へ。
その時は少しは“ヤバい”と感じてはいましたが、覚悟などするほどのことでもないかな、というのが本音でした。
なので“タクシー代がもったいない”というのが本音で照号を借りたのでした。
夜、急に車貸してくれって来たら、照も驚いたと思います。
おかげで照にも長い夜にさせてしまいました。

搬送された堀之内の国立ガンセンターに孝は、つい先月まで肝臓ガンで入院していました。
肝臓ガンの摘出手術のためだったのですが、手術直前に腹水がたまり、手術はキャンセル。
その後、投薬治療でガンは縮小し、退院してケアハウスに戻っていました。

夜間受付で病室を聞き、エレベーターで5階へ。
「長谷川さんですか?」
エレベーターを下り、看護師の案内で病室へ。
そんな風に案内されるのはよほどのことです。

555号室。
ベッドに横たわる孝の姿。
医者と看護婦、ケアハウスから同乗した介護士の男女、計4名がベッドを囲んでいました。

「すでに呼吸が無く…」
と、医者が指し示す心電図はすでにフラットでした。
洒落じゃないけどたまにふらっと振れるくらいでした。
緊急手術か何かが必要ですぐ来てほしかったのかな、位にしか考えてなかったので、予想以上の急展開に僕もミツも少しついて行けてない状態。
「あんた、あんた…」
ミツはベッドの横に立って、孝に話しかけます。
酸素マスクをした孝はまぶたを閉じ、少し窓の方を向いたまま、呼びかけにもぴくりともしません。
心電図も振れることはついにありませんでした。

麻にメールするため、一旦、廊下へ。
みんなにメール回してと頼んで、病室に戻ると既に心電図の装置が外された後でした。

8時4分、臨終。

ミツは大きく落胆した様子でもなく、ただ、孝の頭を撫でながら話しかけ続けていました。

二人を病室に残し、廊下へ。
それから、麻、照、徳になくなったことを連絡しました。


実は翌12日、孝はこの病院に検査入院する予定でした。
着替えもバッグに詰めまくって入院準備も万端整え終えた矢先の出来事でした。
ここ3日ほど、錦家に来なかったので、ミツは検査入院することは知らなかったようです。
あと1日、入院日が早かったら…。
と、思っても仕方がないのですが、10月に入って体調が優れない日々が続いていたようです。
また、10月2日は長谷川系の法事も予定されていましたが、体調不良で出席を見合わせたそうです。
照号が使えれば今治まで乗せていってもいいかなと、珍しく僕が孝に仏心を抱いたりしたのですが、ヨシの3回忌とかち合ったため、叶わず仕舞い。


話は前後しますが、高松の千や、ケアハウスでの出来事を。

孝は、午前中に行われたケアハウスのレクリエーションで伊予灘サービスエリアまでみんなと一緒にドライブ。
普段と変わりなく、その時撮った写真には、アイスの雪見だいふくを食べる姿などが写っていました。
昼にはケアハウスに戻り、異変が起きたのは夕食時。
気分が悪いと言って夕食をキャンセル。
まもなく嘔吐。
長井医師がすぐに駆けつけ、診察し注射。
しばし様子を見ることにしましたが、その後吐いたものに血が混じっていたので、ガンセンターに問い合わせ。
すぐ連れてきて欲しいと指示されたので救急車を呼んだのでした。
と同時に千にも電話連絡がなされました。

高松でも夕食時。
ケアハウスから、来てほしいという電話を受けた千はミツへ電話で知らせます。
千もこの時はまだそれほど緊急性を感じていませんでした。
夫・明彦は晩酌中で車の運転ができないから、最終の高速バスもまだ間に合うし、それで行こう、なんて最初は思ったくらいでした。
たまたま息子の良平がいたので、彼の運転で松山へ向かうことになりました。
死ぬなんて思ってませんから、荷物も最小限で車に飛び乗りました。

ケアハウスに救急車が到着したのが6時3、40分頃。
博が新立の伊予銀へ行く途中、ケアハウスの前に駐まる救急車をたまたま目撃。
担架で運ばれる長身の人物に“まさか…”と思ったとのこと。

ガンセンターへ運ばれてすぐは嘔吐したりしていたそうですが、いつまで意識があったのかは定かではありません。
高松から電話連絡があった7時5分頃にはすでに意識混濁状態だったかもしれません。

高速道路をひた走る松本号。
トイレ休憩に立ち寄った小松の石鎚ハイウエイオアシスで千の携帯が鳴ります。
孝死亡の第一報でした。


その頃、病院廊下のソファで僕とミツは千待ち状態。
同棲?してたミツにも、その後の段取りを決めることは出来ないので、とりあえず待機。
そこへ、伊予市の松本系の、明彦の母親とその娘、とその子供の3名が到着。
病室へ案内し、対面。
病室から出てきた母親になくなった経過をかいつまんで説明したのですが、一目見た孝の姿がまるで眠っているかのようだったので、僕の“亡くなった…”という言葉に
「えっ?」
と、なっていました。
それくらい、孝の死に顔は全然苦しんだ風もなく、血色もよく、穏やかなものでした。

9時40分頃。
やっと千到着。
良平、傍らのイスに腰掛け、孝の顔にかかった白い布をとるなり、わっと泣き崩れました。
しばし涙、涙。
おじいちゃん子だった優しい孫は、千より泣いていました。


孝の死因は肺梗塞。
ただ、詳しくは解剖しないと分からないようでした。
医師が言うに、肝臓ガンの腫瘍が破裂し、血栓が肺の血管を塞いだのでは…。
そんな見解でした。


孝は寝てればいいけど、残された者には沢山、しなければならないことが待っています。
葬儀をどこで行うか、まず先決。
千が小倉葬儀社にお願いすると決めたので、照に電話を入れました。
10時はとっくに過ぎていましたが、照自ら、小倉に出向いてくれるとのことで一安心。
まぁ、お金のことを心配した照が、病院で1泊させて明日搬送しては?、と、変に気を回したので、少しゴタゴタするシーンもありましたが、すぐ迎えに来てもらうことに決定。
でも、「到着に40分かかります」という小倉の返答に、遅すぎると松本系は不満を漏らしていました。

小倉を待つ間、ミツが、乗り物酔いするくせに車で揺られたのが悪かったのでは、とか言うのですが、病院まで付き添ってくれたケアハウスの介護員も帰った後だったので良かったぁ。


小倉の搬送に続いて僕らも病院を後にしました。

ミツを錦町へ下ろし、車を戻し、小倉へ。
孝が安置されたのはヨシや春と同じ部屋でした。
照がいたのでお礼を言い、ひとまず、家へ戻りました。

その後、ミツは小倉へ行き、家に帰ってきたのは朝4時でした。

12日のこと

ミツは寝ずに朝6時、再び小倉へ。
いざとなればよく歩きます。

僕は10時頃、小倉へ。
「少々寝なくても平気、大丈夫」
と、気だけ若いミツ。

徳、裕はすでに来。

昼前に高松から明彦、裕介着。
早速、涙の対面となりました。
松本系は心がホント、篤い。

昼はホカ弁で昼食。

この辺りで、睡眠不足もあり、ミツの話が脱線開始。
千らに孝の話を聞かせていたと思ったら、いつの間にか三浦の話に変わり、そのままどんどん脱線。
徳もそれに話を合わせていくものだから、千らは取り残されて、ぽかーーん。
こんな席くらいは孝トークで盛り上がればいいと思うのですが…。
ミツの脱線トークの傾向は、誰かの名前を口にするたびに、その人物についての思い出話が始まるという感じ。
また別の人の名前を自ら口にすると、また脱線、脱線、その繰り返し。
(千は錦家に2泊したのですが、初日は根気よく脱線話に追随。
しかし、高松に帰る頃には、昔話なら孝にまるっきり関係ないことでも何でもかんでも話すミツにちょっと困惑、うんにゃ、たまにイラついてたかも。
だって、尋ねたことにちんぷんかんぷんな答えが帰ってくるんだもの、仕方ないのでした)

通夜は夕方6時から。
浄土真宗は通夜にお坊さんが来ないそうです。
10時頃、小倉へ行くと、義も来ていました。

一方、東京の麻は仕事が山となでしこなので来られず。
大阪の伸は船に乗って着々と松山へ向かっていました。
ミツ的には、伸も麻も来なくてもいいと言っていたのですが、来る者拒まずです。

13日のこと

朝、起床すると5時55分。
孝の病室は555号室だったなぁ、とか思いながら支度。
当初、着る服がないし、申し訳ないけど葬儀はパスしようと思っていました。
でも、ミツが孝の礼服を用意してくれていました。
袖を通すとワイシャツは肩幅が狭くて駄目だったけど、上下はなんとか着れてしまった。
孝とは不仲だったけど、ちゃっかり形見分けしていただくこととなりました。

車椅子を用意していると伸、到着。

急げ急げの照に比べたらミツはゆっくり支度。
納棺の20分前に小倉へ。

葬儀は、宗教的な違いが多少あるだけで、ヨシ、春の時とほぼ変わらない段取りで進行してゆきました。

納棺の前、ドライアイスで冷え切った体をみなで温めます。
松本の面々が冷え切った体をさすりながら、また涙していました。

その後ろで、三浦一族は世間話などして笑い話しており、僕はちょっと、引いてしまいました…。
相変わらず、緊張感のない人たちなのでした。
徳などは、四国別格霊場の数珠を麻の分作ってや、と照に頼んだりしてました。
言うや易し、行うは誠司。
結局、四国中、走り回らされるのは僕なんだぞ。

浄土真宗は、納棺前、白い装束に着替えることもありません。
敷き布団のまま190センチの棺に納まると、上から生前愛用していた服を掛け、釣りの魚拓や、お供えの果物などが入れられて蓋が載せられました。

棺は隣の会場へ。

春の時もそうでしたが、畳の間で葬儀も行うつもりだったようです。
けれど、今回も照の仲介で割り引き(25%オフ!)
広い会場で行えることになりました。

当日は思ったより参列者が増えるものです。
送ってくれる人が多いのはいいことです。
ケアハウスから病院に付き添ってくれていた介護士の二人も参列されてました。
初めて見た長井医師は髭面でダンディ。
今治の長谷川系も来て、会場の椅子が次々、埋まってゆきました。
ちなみに、孝は生前、仙波さんに町内会からは結構ですからと言っていたようです。

長谷川系は今治の新谷というところが本家だそうでお坊さんも今治の宝珠寺から来られました。
読経はよく響く声で、ビブラートめちゃめちゃかかってて、カラオケで鍛えてんなぁって感じでした。
初めて聞く浄土真宗のお経はまるっきり???。
隣に座った義はウトウトと船こいてるし。
後で聞くと、僕の後ろの人たちも結構、舟を漕いでみたいでした。

棺に花を入れる件で、司会者が、
「命を授かったお孫様、その授かった命に感謝しつつ、どうぞ、お爺さまにお花を供えてあげてください」
とか、盛り上げようとするのがなんか可笑しかった。
でも、裕介、良平は泣きながら花を棺に入れたので、ちょっと自己陶酔気味な司会もそれはそれで感動的でした。
ミツが焼香などの場面で足下がおぼつかないと見るや、裕介がさっと介添えに来てくれる。
うーん、優しい子だなぁ(といってもとっくに二十歳越えた立派な社会人だけど)。

石で釘を打つ件ではまた涙、涙。
喪主挨拶での明彦さんが言葉を詰まらせたシーンでは、それまで船をこいでいた人たちも涙していました。

霊柩車に棺が乗せられ、千が遺影を抱いて同乗、斎場へ向かいました。
霊柩車を追って僕らも斎場へ。
照号には伸も同乗。
ミツは義号で。

斎場はそれなりに今日も人がいて、“今日の火葬予定”みたいなスケジュール表の通りに、煙突からは盛んではないけど煙が上がっていました。

最後の別れをし、孝の棺は扉の向こうへ消えてゆきました。

少し小さめの部屋で斎食。
照は僕の隣に着席。
すると、なぜか目の前の折り詰め空けようとせず、僕の折り詰めに箸を延ばし、缶ビールをごくり。
おいおい。
おいらが食べられないじゃないないか。

一方。
千らはロビーのソファに腰掛け、天を仰いでいます。
実は、出席人数を少なめに読んでいて、自分たちが食べる分が無かったのでした。
一人前4500円もするから、簡単に増やせるものでもないし…。
それでも、当日、5人分増やしたそうで。
十亀系が5人もずらずらっと来てた辺りがもしかしたら計算外だったのかも…。

んなことなら、照が手を付けなかった分を回してあげれば良かった、と、思ったのはずっと後のことでした。

ロビーに出るとまた、義、ウトウト中。
こんな所でもよく寝れるなぁ、と貞。
伸も交えて子供の話とかしてる間に呼び出しのアナウンスが入りました。
さすがに、自転車でうろうろできたくらいだから孝の骨は骨太にしっかり残っていました。
ミツは脊髄の一つを摘んで骨壺へ。

その後、今治の長谷川系はそのまま帰られました。


錦町に帰ってから−

千らは松山に残って残務整理。
その間、遺骨は錦町へ。

小倉の人自ら錦町の家の2階に来て、遺骨と遺影を置く台のセッティングをしてくれました。
遺影を北向きに置くのは良くないと聞いたけど、方角も別に気にする必要もないようでした。

やっぱ、浄土真宗ってシンプル。
真言宗では亡くなった人は49日かけて極楽浄土まで“歩いて”ゆきます。
けれど、浄土真宗では、亡くなった人は既に極楽にいるんだそうです。
なので、ロウソクや線香を絶やさないっていうお約束も必要ない。

けれど、一旦帰った照がまたやって来て、やれ、遺影が北向きは良くないだのと置き場所の変えさせられました。
約束の多い真言宗の理からしたら、 やっぱ、あまりにシンプルで違和感がありまくりなのでしょう。

照が帰りがけ、夕ご飯でも食べに行けや、と言うので、千と外へ食べに出かけました。
ちなみに照、出したのは口だけでした。
千は朝食べたっきりで全然だったようで。
錦町周辺には食事できるところがまるっきりないので、2番町までテクテク。
豚珍行で中華そば&餃子。
千とちっとも話す機会がなかったのでちょうど良かったです。

その夜、伸は錦町で泊まる予定でミツも了解していました。
けれど、伸が出かけた後、すっかり忘却していることが判明。
千が泊まることになっていました。
道後温泉本館へ出かけていた伸にメールで知らせ、伸はそのまま春家へ泊まることと相成りました。

メモ書きへ戻る→