平成17年7月31日

昔調査 その1

春ビルにて中岡家のお位牌を発見。
納められていた“繰り出し”をもとに、以下のような系図が明らかになりましたので、ご報告。

■サカエ系   

中岡勘蔵
├──── 勘蔵
├──── 栄吉
├──── 道蔵
ハルヨ D───── サカエ
ヒサヨ
高橋■
福美
秀平■
├───── 茂美
西岡竹之進 ├───── 初美
求《■》 森■
ヒロミ

サカエの父親の名前から左が今回判明した分です。
勘蔵は二人おり、「勘蔵 妻」というお位牌も二つ。
「勘蔵 妻」の二人は命日が3年しか離れていませんでした。
なので、どちらが姑なのかはっきりしません。

「勘蔵」の繰り出し位牌がもっとも古い記録となりました。
天保14年。西暦で1843年です。

ちなみに中岡家は絶えてしまいました。
サカエの父・道造、妻・ヒサヨは4人の子供をもうけました。
しかし、男子は生後間もなく死亡、道造も大正になくなりました。
ヒサヨは西岡家へ、サカエ、福美をつれて入籍。
よって、中岡家は絶えました。
長女であるお位牌をサカエが守り、松山大空襲の際はミツが家から持ち出し難を逃れました。
現在は春ビルでそっと供養されています。

もひとつ。
中岡家のお墓は未だ分かりません。
西岡の茂美さんも知らなかったようなので。
あるとすればやはり、美川の黒藤川です。

県立図書館にて閲覧した、『段別畝順帳 伊豫國周布郡川根村』
(明治政府が租税改正を行った際、納税額を算出するために農地、山林を測量・記録した台帳)
の中に、ご先祖様の名前を見つけました。
作成された年代は、農地が明治9年、山林が13年。
虫食いだらけの和綴じ本の中、農地には、

四拾番
字臼作
 一墓地四歩  三浦藤吉

山林には、

三十八号
字皿ヤマ屋敷
一松山九畝拾九歩 三浦藤吉

と、記録されてました。
過去帳に続いて古い記録となります。

現在のメートル法に直すと、
 ・一墓地 四歩 → 四坪 → 13平方メートル → 3×4メートルちょっとの広さ
 ・一松山 九畝拾九歩 → 960平方メート → 31×31メートルちょっとの広さ
に、相当します。

ミツ子おばちゃんが「お墓はもっと広かった」と言ってましたけど、明治の記録でもこんなもんでした。

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