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四国にはもてなしの心、「お接待」が、現代でも息づく、素晴らしい国です。
それは山道にそっと置かれた杖であったり、
それは遍路道の木陰のベンチだったり、
それは行く先々の、特に辻辻で見かける道案内板だったり、
名もない心づくしをいたるところに見つけることが出来ます。
毎年、数百人分もの草餅をお遍路さんに配る奇特なおばさんがいたり、
「みかん、もっとうき(持ってお行き)」と、袋にどっさりみかんをくれたりするのは良くある話で、
食べ物、飲み物、お賽銭、小物、…、
いろんな施しを受ける場面に出会います。
お接待がなにより尊いのは、それが無償の行為だからです。
見返りは求めません。
お遍路さんに施せることがありがたいのです。
お接待することで、遍路旅の一部を共有しているのかもしれません。
遍路旅でお接待されると、その気持ちは失われることなく、今度はお接待する側になってお遍路さんの手助けをする。
巡り巡る、なんと美しい連鎖でしょうか。
お遍路さんでなくても、旅人には優しい国です。
県外ナンバーの車中で地図を広げている人や、旅行ガイドブックを手にキョロキョロしている観光客を見かけたら、こちらから声を掛けたくなる。
これは「お接待DNA」が受け継がれている証拠なのかもしれません。
「巡礼して良かった」
そう思える旅が出来れば、それが何よりのご馳走ではないでしょうか?
楽しいことばかりではないのが巡礼の旅。
けれど、一番不愉快にさせるのは、実は「お寺」だったりします。
道中いろいろありながら、やっとたどり着いたお寺で、まるで見下されたような「施し」に遭うことがあります。
怒りがこみ上げるどころか、あきれてものも言えない。
下手に反論して「四時間も説教」なんてこともあるのです。
八十八ヶ所にも、別格霊場にも、残念ながらそんなお寺が存在します。
お遍路はビジネス。
お賽銭には手を合わすものの、お遍路さんには気を配らない。
横柄な住職や納経所の雇われ爺さんに言いたい。
「お大師さんに手を合わせてるんだ、お前達にではない!」
勘違いした一部の不心得者のために、旅の間中、イライラを引きずることがあります。
八十八ヶ所にも別格霊場にも観光の波が押し寄せ、金勘定に忙しいお寺が増えています。
お寺が儲けてはいけないとは言いません。
私が言いたいのは、逆に、儲けたいなら、客を大事にちゃんと接客しなさい、ということです。
「小銭は賽銭箱で稼ぎ、万単位の金は法事と寄付で稼ぐから、「店頭」販売分は微々たるものだから、面倒だ」、
そんなことではますます悪評が拡がり、皆共倒れになるでしょう。
「お接待」精神を
お大師さん=弘法大師=空海は、香川県の善通寺辺りで生まれました。
石鎚山を始め、山好き?なお大師さんは、四国各地に修行と奇蹟の足跡を残しました。
大抵のお寺にはお大師さんゆかりのものがありますし、ため池や鉱山、衣食住、祭り…、様々な物にお大師さんの御陰は息づいています。
後日談
後日談ですが、伯父が独りで買いに行った時はやっぱりブツブツ言われたそうです。
そんな念珠ですが、困ったことがひとつだけあります。
お寺によって、「念珠は納経と一対のもんや!」と一言もの申す爺さんやご住職がおられることです。
厭そうに、面倒臭そうにいっしゃられるので、ホント、不愉快な旅になってしまうんですよね。
私もそんな一人です。
そこで、お寺さんに直接うかがってみました。
すると、その答えは意外なものでした。
念珠を販売しようとした時、みんなで一珠300円と安価な設定に決めたのだけど、「珠だけ買われては儲けにならない」という台所事情を反映して「珠は納経と抱き合わせて販売すべし」的な内規を決めたそうです。
そうして販売開始したところ、思ったより人気が出ました。
一寺一筆、納経をしていただくように、念珠集めも巡拝を後押しする大切な動機付けとなっていきました。
収集心に火が着いてか、とにかく、ありがたく、みなさん、買って行かれたそうです。
お四国を回られる理由は様々です。
皆が皆、自分のためとは限りません。
誰かのためにお札やお守りを買うように、わざわざ四国一周して念珠を集められる奇特な方も沢山いらっしゃいます。
そうして、参拝者も増え、知名度も上がってお寺側も最初は喜んでいたそうです。
その頃はまだ、抱き合わせ販売についてはそれほどうるさくなく、珠だけを買われてもなにも言われなかったそうです。
別格は八十八ヶ所に比べ、参拝者が圧倒的に少ないので、元々、参拝者の扱いに不慣れなところがあります。
たまに参拝者が来る程度なので、表でずっと待ってるわけではありません。
そこへ来て、自然の成り行きと申しますか、お金をもらって多人数分、買い集めて回る人が出始めて、中途半端に参拝者が増えてしまい、静かなで無くなりました。
商売ならうれしい悲鳴をあげるところなのでしょう。
けれど、儲けることを考えていれば一珠300円なんて値段は付けません。
「こんなことなら500円でも良かった」と、後で思ったそうです。
インターホンで呼びつけられることが次第に苦になってきたそうです。
出てみるとみんな「珠だけください」。
納経300円とセットなら600円でも、珠だけなら300円。
「たった300円のために」
と、話を伺ったお寺の住職さんはおっしゃいました。
「たった300円」と…。
そういう心構えだと、いちいち対応するのが面倒になるのも仕方ありません。
そうして、念珠人気は終いに、完成した念珠をインターネット・オークションに出品して売ろうとする人まで出たのです。
そうなると、もう、面白くないお寺が出てきました。
販売中止を求めるお寺も出てきました。
そこで、過熱気味な人気を正す意味でも、当初の一納経一珠、つまり「珠は納経と抱き合わせて販売すべし」な内規を徹底して、正常化を促そうとしました。
「本来、念珠と納経は一対のものです」
そんなポスターまで作られました。
かつてのファミコン・ソフトの抱き合わせ販売や、ハリーポッターの新刊が上下巻セットじゃなきゃ買えないのに似ているような気がします。
けれど、珠だけ買いの参拝者が後を絶ちません。
絶つわけありません。
単純に、お寺側の儲けはセットでプラス300円でも、参拝者側から見れば300円の二十ヶ寺分、6000円も負担が増すからです。
巡拝には四国一周の旅費もかかっています。
消費者としては納得して受け入れられる、納経と一緒でなければならない理由が必要です。
でも、「お寺側でセット販売に決めたから」では説得力ありません。
せめて、法律で決まっているとか、「御利益が無い」でもいいんですが…。
現在もそんな庶民感覚を理解していただけるお寺がほとんどで、参拝者の奇特な良心を信じて、珠だけ買いを黙認してらっしゃいます。
けれど、5つのお寺では頑なに、一納経一珠の決まりを守ろうとされておられます。
どうせお売りになるのなら、気持ちよく販売されればいいと思うのですけど、お寺さんにもいろいろとご事情があられますからね。
でも、トラブルが起きているのも事実です。
何度も巡拝されたお遍路さんが、納経は必要なく、「誰々さんのために珠を買おう」と思って申し出ると、納経所にいる小うるさいお爺さんと一悶着…。
まとめて買おうとしたら住職さんに断られ、「おかしいじゃないか」と口答えしたら4時間も説教を食らった…。
ぶつぶつ文句を言われて、不愉快な思いをさせられた、など、そんな馬鹿馬鹿しいトラブルが少なからず起きているのも事実です。
それが念珠にまつわるトラブルです。
そこで、みなさん、よ−く考えてください。
お守りやお札、『花曼荼羅シール』などは一枚だけでも黙って売ってくれますよね?
念珠珠だけがダメなんです。
変でしょ? (〃^(ェ)^)
一納経一珠のセット販売の決まりなんか作るからいけないんですよね。
「500円に値上げする!」って話もあるそうなので、「納経と一対のもんや!」と、ぶつぶつ言われても笑って受け流しましょう。
説教を食らうくらいのはまだ良い方かもしれません。
これから回る予定のお寺に次々電話をかけられて、「これこれこういうヤツが来たら、珠、売らんといてなー」なんて意地悪される場合もあります。
出来るだけ納経もして貰いましょう。
小うるさいお爺さんに給料も払わなきゃならないし、 老朽化したお堂の修繕など、お寺にも生活がかかっています。
どうせ、この金で飲みに行くんだろう、なんて考えず、協力してあげましょう。
納経済みの方は、納経帳に印だけ追加する「追い判」100円で勘弁して貰いましょう。